天野鉱山(和歌山県)

天野鉱山は和歌山県伊都郡かつらぎ町に位置した鉱山です。
和歌山線笠田駅の南東5.5kmに有りました。

天野鉱山の概要

丹生都比売神社に保管されている「上天野文書」によると、明治7年3月に鉱山が開かれたという。
後に開発が進むにつれて、坑道内から流出する水や製錬所からの煙によって、村の作物が枯れる等の公害が発生し公害問題になった。鉱害については明治33年・同39年に鉱毒に関する陳述諸や、大正4年に鉱山主と地元民の鉱害に関する覚書が残されている。

その後、天野鉱山は戦時中に一時閉山となったが、戦後に再開され昭和45年頃まで稼行された。

坑口が丹生都比売神社(天野大社)の南東に少し離れた場所に有り、当時天野鉱山で働いていた松岡藤吉氏によると、「坑道は天野大社の拝殿の下を通って、袖切り地蔵が立っている付近まで続いている」「坑道は深く切り下げられ合計で383段階段を下りて作業を行った」との事である。(紀ノ川の民話 伊都篇より)

同じく天野鉱山で働いていた鍋田鉄夫氏(上記松岡藤吉氏の奥さんの兄との事)の証言でも「坑道は天野大社のすぐ裏の山を通って西に延び、鬼王団三郎の墓当たりまで掘られている。」「天野大社の裏山は西の方に向かって鉱床が有り、ボーリングを行った事が有る。その外に大昔に掘ったとされる廃坑が2つある」「天野鉱山は主に銅が主であるが、所々に純金の良質な物も含んでいた」などが残る。(金属・鬼・人柱その他 : 物質と技術のフォークロア)より

鉱山の鉱業人として、明治7年に九度山村の北山八十郎氏が採掘し、明治23年に林亀一郎氏が試掘届を提出、明治33年には鉱業人林平造氏、大正4年の鉱山主は井沢駿太郎氏の名が残っている。

天野鉱山の鉱床

天野鉱山の鉱床は水平方向80m、傾斜方向に60m開発されている。
上一番坑口に縞状鉱が見られる。上一番坑口から深さ約40mまで開発されている。

鉱床の富鉱部は厚さ30cmから60cm。
鉱床に含まれる金属鉱物は黄鉄鉱と黄銅鉱。折りたたまれた褶曲部に黄鉄鉱が多く見られる。鉱脈には緑泥石、石英、炭酸塩鉱物が含まれている。

鉱床は上𨫤と下𨫤の2枚からなり、厚さは何れも数十センチ。稼行の対象になっていた鉱床は上𨫤にあるレンズ状の富鉱部。

昭和36年までの坑道総延長は680n。
主な坑道には通洞抗、下1坑、下2坑、下3坑が有る。
同じく昭和36年までに銅鉱石を推定で4200t(銅品位1.5%、銅量63t)採掘した。

天野鉱山の歴史

明治初期に開坑され、一時期山下吹(銅の酸化製錬法)を用いて稼行が行われた。
昭和12年から昭和15年(1937年から1940年)にかけて柳永太郎氏によって、通洞抗および下部の開発が行われた。
昭和37年(1962年)山一鉱業株式会社が鉱山を買収した。
昭和45年頃に閉山した。

参考資料『日本の鉱床総覧』『紀ノ川の民話 伊都篇 (きのくに民話叢書 ; 第2集)』
『金属・鬼・人柱その他 : 物質と技術のフォークロア』『かつらぎ町史 近代史料編』

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