名野川鉱山は高知県吾川郡吾川村名野川に位置した鉱山です。
名野川鉱山の概要
名野川鉱山の情報としては、昭和27年頃の大宝鉱業部の稼行時代の物として、以下の記録が有ります。
鉱業権者:大貫和一
鉱区番号:採登第72号(昭和16年1月18日登録)
鉱区面積:608,200坪
鉱種:金銀銅硫化鉄鉱
労務者:57名
採掘した鉱石は四阪島製錬所に出荷をしていた。

名野川鉱山の位置
名野川鉱山は、土讃線の佐川駅からバスにて猿橋駅にて下車し、馬車道を6km進み鉱山最寄りのが長坂集落に到達する。長坂集落から鉱山事務所までは徒歩20分、約1.8kmの場所に位置した。
高所は標高700から900mの場所の比較的緩やかな北斜面に位置した。
陶器には積雪が15センチほど積もる事も有った。
名野川鉱山の鉱床
鉱床は東西1.5kmから2km、南北に1km。
鉱床の範囲内に、長坂地区、滝野-隆盛地区、蕗ヶ谷地区、橘山地区、大滝地区の5つの鉱床群が散在している。

各鉱床の鉱体は直径数メートルから数十メートルの大きさの、レンズ状となっていた。
層状含銅硫化鉱床で、厚さは5~100cm。平均で30m。
鉱床の主な金属鉱物には、黄銅鉱、黄鉄鉱、磁硫鉄鉱、斑銅鉱が見られた。
昭和36年までの坑道の総延長は、水平坑道で15,000~20,000m。
昭和36年までの採掘量は概算で40,000t。
銅の品位は5%で、銅量は2,000t。
本坑鉱区
鉱山事務所の西部の標高680~700mに位置し、大切坑、冨源坑、本坑、長坂坑、八代坑等の坑道が有った。
隆盛坑鉱区
長坂坑の西南西650mの標高820mに位置し、隆盛坑、西山坑、昭和27年5月に開坑した第二坑があった。
隆盛坑では月に15~20トン採掘し、鉱石は俵に詰めて本坑索道まで木馬にて搬出していた。
滝野坑鉱区
隆盛坑の西方約1km、標高920mに位置しており、本鉱区に次いで規模の大きな鉱床であった。
坑道には第1坑、第2坑、第3坑、東坑、梅坑、錦坑などが有った。第1坑は約4000~5000t規模の鉱体が見られた。
蕗ヶ谷鉱区
滝野坑の西800mの標高1000mに位置していた。
藩政時代から稼行されており、第1坑、第2坑が有った。
第1坑は昭和10~11年に越智友右衛門氏と陣内栄之助氏と、継いだ昭和鉱業が稼行した。
鉱脈の幅は15~16cmで、銅品位は6~8%と本坑より高品位。
約2000tの鉱体が有った。
第2坑は昭和鉱業時代に第1坑の鉱体の下部開発を目的に開かれた。
鉱脈の幅は30~40㎝。
稼行時は第2坑から本坑に向かって索道が架設されていた。
橘山鉱区
蕗ヶ谷坑の南東900m、標高900mに位置した。
昭和14~16年に探鉱し、1坑、2坑、3坑が開かれた。
鉱脈の幅は30cmのガリ鉱で、銅品位は低く、主に硫化鉱からなっていた。
北西100mには露頭が有り、転鉱石を追って北に約30m掘進した。
大滝坑鉱区
橘山鉱区の西約1km、標高1100m、に位置していた。
昭和鉱業時代に発見され、1坑、2坑、3坑が開かれた。
何れの坑道も低品位の細い鉱脈を採掘した。
名野川鉱山の歴史
1865年から1867年(慶応年間)フランス人のアントワン氏が蕗ヶ谷坑と滝野坑を開く。
1870年(明治初年)この頃に土佐藩主であった山内候が隆盛地区、長坂地区を開発する。
1923年から1935年(大正2年から昭和10年)白石鉱業が長坂地区(本坑八代坑)を開発する。
1935年から1936年(昭和10年から11年)越智友右衛門氏と伊予の陣内栄之助氏(資料により神野栄之助氏)が小規模に稼行した。
1936年から1945年(昭和11年から20年)昭和鉱業が前鉱業権者の陣内栄之助氏名より鉱区の譲渡を受けて稼行し、後に大貫和一氏の手に渡る。
1951年(昭和26年)大宝鉱業部により鉱山が稼行される。
1955年(昭和30年)12月に住友金属鉱山株式会社がが、鉱業権を取得。
1957年(昭和32年)より33年まで金嶺鉱業が採掘を行う。
1958年(昭和33年)10月に休山となる。
1961年(昭和36年)再び金嶺鉱業が手掘りにより小規模に残鉱の採掘を行った。
1966年(昭和41年)3月に閉山となる。
参考資料『日本の鉱床総覧』『日本の層状含銅硫化鉄鉱床総覧』『日本地方鉱床誌 四国地方』『地質調査所月報 5(5)』『最新大日本鉱山史』

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