白滝鉱山は高知県土佐郡大川村に位置した鉱山です。
白滝鉱山の概要
白滝鉱山は旧大川村の朝谷集落の北部の四国山地の南面中腹の標高800m付近に位置していました。鉱床は高知県と愛媛県の両県にまたがり、東西15キロ、南北4キロの範囲となっています。

白滝鉱山は1947年の情報では以下となっています。
白滝鉱山
位置:高知県土佐郡大川村朝谷126番地
高知県採登:68号外3
面積:1,052,865坪
鉱種名:金、銀、銅、酸化鉄鉱
鉱業権者:日本鉱業株式会社
白滝鉱山の沿革は古く元禄年間に開発が行われ、嘗てはそれぞれ独立して稼行していた、白滝鉱山、朝谷鉱山、大北川鉱山、富郷鉱山、樅の木鉱山、大川鉱山等の諸鉱山を合併した鉱山となっている。その中でも樅の木坑はもっとも古く、旧藩主の山内候が開発を行ったと言われている。
それぞれの鉱山は明治30年前後より小規模に稼行され製錬などが行われたが、大正元年以降にそれぞれの鉱山を総括して運営する目的で、宇宝合名会社が権利を得て、採掘を行った。次いで、大正8年4月から久原鉱業株式会社および日本鉱業株式会社の経営になり本格的に開発され、高知県最大規模の銅鉱山となりました。
大正3年には水力発電所と精錬所を整備し、大正7年には採掘した鉱石の運搬用に鉱山から伊予三島間に22キロの架空索道が設置されています。


最盛期には鉱山周辺に鉱山街ができ、鉱山関係者やその家族2000名以上が生活を営んでいました。
鉱山街には鉱山事務所、変電所、選鉱場、社宅、日用品の供給所、白滝会館、学校、郵便局、診療所、映画館、飲食店など多くの施設が充実していました。



また、村会議員にも鉱山街から1名、鉱山関係者が2名選出され、地域と鉱山の橋渡し役をになっていたとの事です。
日本有数の鉱山となった白滝鉱山ですが、昭和40年には採掘部は地下800m、海抜ゼロメートル付近となり、徐々に採掘コストがかかるようになりました。
昭和43年には経営赤字となり、鉱脈が少なくなったことや採掘コスト増から経営の見通しが行かなくなり、白滝鉱山は昭和47年4月に休山となり後に閉山となっています。
閉山直後には海面下116メートル地点での採掘となり、採掘現場へは片道2時間を要する程となっていました。
白滝鉱山の鉱床
白滝鉱山には、白滝鉱床、下川鉱床、大川上坑鉱床、大川下坑鉱床、子持鉱床、白髪山鉱床、久保鉱床、樅ノ木鉱床等多くの鉱床がありました。
白滝鉱床

鉱床は総延長600m以上、傾斜長4,200m以上。
脈の幅は0.2~0.4m。
鉱床は笹の葉状で、直径数10mから数100m。
露頭部の延長は6,000m有り、S字型で東西に走っている。
開発は露頭部から海抜250m(垂直約800m)の25番坑まで開発された。
鉱床に含まれる金属鉱物には、主に黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱からなり、少量の閃亜鉛鉱、磁硫鉄鉱、輝銅鉱、銅藍、自然銀を含んだ。また、微量に含まれる鉱物として、金、銀、コバルト、チタン、マンガン、セレン、チタンなども見られた。
坑道の総延長は昭和36年までに250,000m。
下川鉱床

鉱床の露頭延長は4,500m、𨫤の幅は0.1~1.0m。
露頭より500mの深さまで開発された。
鉱床の主な金属鉱物には、黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱、閃亜鉛鉱。
微量に含まれる鉱物には、金、銀、コバルト、マンガン、砒素、チタン、セレン、バナジウムが見られた。
昭和36年までの坑道総延長は17,500m。
大川上抗鉱床

露頭延長は600m、𨫤の幅は0.1~3.0m。
露頭より深度100mまで開発された。
鉱体はレンズ状の3つの鉱体が開発された。
鉱床の主な金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱。
昭和36年までの坑道総延長は2,600m。
大川下抗鉱床
露頭総延長は6,500m。𨫤の幅は0.1~0.5m。
露頭より150mの深さまで開発された。
鉱床の主な金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱。
昭和36年までの坑道総延長は5,200m。
子持鉱床

露頭延長は約500m、𨫤の幅は0.1~0.8m、最大で1.0m。
露頭部より深度600mまで開発された。
鉱床の主な金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱。
昭和36年までの坑道総延長は2,000m。
白髪山鉱床
鉱床の富鉱体延長は100m、幅10m、暑さは0.1~1.0m。
露頭延長は約3,000m。
鉱床の主な金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱、閃亜鉛鉱など。
微量に含まれる鉱物には、金、銀、コバルト、チタン、マンガン、バナジウム、セレン、ニッケル等が見られた。
白滝鉱山の歴史
白滝鉱床
1672年(寛文12年)白滝鉱床が発見される。
1699年(元禄12年)本格的に採掘が行われ、1864年(元治元年)頃まで細々と稼行されていた。
明治初期は一時的に住友家により稼行されていた時期もある。
1892年から95年(明治25年から28年)大橋藤次他2名により野地鉱山として稼行された。
1913年(大正2年)宇宝合名会社が鉱山を買収し稼行した。
1919年(大正8年)白滝鉱山出張所が出来る。
1933年(昭和8年)日本鉱業白滝鉱業所となり、機械選鉱場を建設し選鉱を行う。
1937年(昭和12年)単一浮遊選鉱場が完成する。
1941年(昭和16年)従業員が1047名となる。
1943年(昭和18年)粗鉱量が20,000t/月の生産となる。
1946年(昭和21年)第一選鉱場の処理量を月6000トンに宿所水、従業員も763名に減少。
1951年(昭和26年)第一選鉱場を重液選鉱場に改造し、第二選鉱場を建設し月産処理量2500tとなる。
1961年(昭和36年)粗鉱10,000t/月の処理設備が完成する。
1972年(昭和47年)1月に鉱山街で火事が発生し建物28棟が全半焼した。
1972年(昭和47年)4月に白滝鉱山は休山となり後に閉山。
下川鉱床
1919年(大正8年)久原鉱業が鉱山を買収し、探鉱と採鉱を行う。
1926年(大正15年)選鉱場が完成し、月650t出鉱する。
1929年(昭和4年)一時休止となる
1933年(昭和8年)日本鉱業の経営となり、出鉱を開始する。
1949年(昭和24年)東坑を閉鎖する。
1961年(昭和36年)請負組に移管する。
大川上坑鉱床
1919年(大正8年)久原鉱業が鉱山を買収し、探鉱と採掘を開始する。
1933年(昭和8年)日本鉱業の経営となる。
1944年(昭和19年)休止となる。
1953年から1956年(昭和28年から31年)試錐探鉱を実施する。
1963年(昭和37年)試錐探鉱を行う。
大川下坑鉱床
1919年(大正8年)久原鉱業が鉱山を買収し、探鉱と採掘を行う。
1926年(大正15年)選鉱場が完成し月に650tを出鉱する。
1927年(昭和2年)ブランジャーポンプを設置。
1933年(昭和8年)日本鉱業の経営となる。
1944年(昭和19年)休止。
1961年(昭和36年)再開し、月60tを出鉱する。
子持鉱床
子持鉱床の発見年代は不明だが、明治末期に白諸鉱山と称して、伊予の近藤鶴太郎氏が東坑と西坑上部を稼行して銅を出荷した。
1934年(昭和9年)日本鉱業が鉱山を買収する。
1946年(昭和21年)休山となる。
1959年(昭和34年)取明けを行う。
1960年(昭和35年)出鉱を開始し、月に400tを生産する。
白髪山鉱床
大正年間に月100tを山元で製錬し、月3tほどの銅を生産したと言われる。
後に休山となる。
参考資料『日本の鉱床総覧』『日本地方鉱床誌 四国地方』『ふるさとの残像 : 高知新聞報道写真全集』『四国鉱山誌』『若者よ山村へ帰れ : カントリーライフのすすめ』『四国鉱山誌』『伊予三島市史 下巻』『ふるさと早明浦』『土佐白滝鉱山史の研究 : 住友家の経営を主体に』

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