与内畑鉱山

与内畑鉱山(よないはたこうざん)は福島県耶麻郡熱塩加納村にある黒鉱鉱床です。
金、銀、銅、鉛、亜鉛、石膏などを生産した。産出鉱物には方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、自然硫黄、重晶石、方解石、石膏などが見られた。

与内畑鉱山の概要

与内畑鉱山は会津若松市の西北訳25キロに位置し、磐越西線の喜多方駅から分岐した、日中線会津加納駅より1キロの位置、加納鉱山は3キロの位置に有った。日中線は既に廃線となっている。

与内畑鉱山には与内畑鉱床と加納鉱床があり、当初はそれぞれ別の鉱山で有った。後に与内畑鉱床の与内畑鉱山が、加納鉱床の加納鉱山を買収して会津鉱業株式会社となった。

昭和37年までに掘られた坑道は与内畑鉱床で67km、加納鉱床で4.2km。
昭和37年までの産出量は与内畑鉱床で石膏、1,021,895トン、銅などの金属は56,481トンとなっている。

加納鉱山時代には金、銀、銅、鉛、亜鉛などを採掘しており、金10,446匁、銀1,356,844匁、銅1,232,630斤、鉛12,325斤、亜鉛615,406貫の量となっている。

鉱体には山岩尾鉱体、大盛第三鉱体、大盛第二鉱体、大盛第一鉱体、末広下盤鉱体、末広上盤鉱体、新盛第一鉱体、新盛第二鉱体、柏鉱体、川西鉱体などが有った。

与内畑鉱山の歴史

大正4年(1915年)頃に与内畑の石膏露頭が発見され、風間忠行氏および風間鉱業株式会社により採掘が行われた。
昭和9年(1934年)新盛坑が落盤し廃山になりかけたが、浅野セメントの協力を得て復興した。
昭和18年(1943年)隣接する可能鉱山を買収し、会津鉱業株式会社となり、戦後は日本有数の石膏鉱床として稼行した。

加納鉱山の歴史

寛永年間に発見され、当初は岩尾銀山と称して盛んに稼行された。
明治36年(1903年)吉田千足氏により本格的な製錬が行われた。
明治38年(1905年)8月に加納鉱山会社(社長は武田耕作氏)を設立。
明治39年(1906年)製錬を開始し、金、銀、銅の生産を行った。
大正6年(1917年)頃まで稼行された。
大正9年(1920年)休山となり長期にわたって放置された。
昭和28年(1953年)会津鉱業株式会社が探鉱を行い、有望な新鉱体を発見した。

参考資料『日本の鉱床総覧』『福島県与内畑鉱山の石膏鉱床について』

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