白沢鉱山は福島県南会津郡伊北村大字田子倉字白沢に位置した鉱山です。
資料によっては田子倉白澤鉱山とも記載されています。
白沢鉱山の概要
白沢鉱山は日本鉱山株式会社により稼行されていた、接触変質による熱水交代鉱床の鉱山です。鉱床は100m×30mのスカルン体に、10m×2~3mの鉱床が有りました。
スカルン鉱物には柘榴石、灰鉄輝石、緑簾石、珪灰石。
金属鉱物には方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱が見られました。
坑道の総延長は昭和35年までに約200m。坑道には貴人坑などが有りました。
露頭からの開発深度は垂直距離で20m。
正確な年号は不明ですが徳川時代に白沢鉱山の鉱区北炭にて新潟の某氏が一大鉱床を発見しましたが、鉱山を管理する鉱山奉行に報告せずひそか採掘し、鉱石の新潟県に運搬したことが発覚し、関係者30人余りが斬首の刑に有ったと言い伝えが残されています。
付近には白戸鉱山なる鉱山(福島県試掘権登録7168号)が有ったとの記録も有ります。
白沢鉱山の歴史
元禄11年(1698年)発見され、明治30年(1987年)に磯村氏が稼行するまで、複数人の手により小規模に採掘が行われた。
なお、地元の田子倉の渡部家の系譜書には、明暦年間(1655~1657年)、万治年間(1658~1660年)の頃には既に開発されていたとの記録が有るようです。
寛文元年(1661年)田子倉の渡部覚左衛門氏が白沢鉱山に間歩を開いたとされる。
寛文6年から7年頃には休山していた。
元禄年間(1988年頃)豪商の河村瑞賢により採掘が行われ当時は鉱山一帯が賑わった。
元禄11年(1698年)中川源雲六氏が鉱山を稼行する。
宝永6年(1709年)蒲生村のいつみや久吉氏が鉱山を稼行する。
寛政12年(1800年)只見村の助右衛門氏が鉱山を稼行する。
享和2年(1802年)越後芦ヶ平村仙次郎氏と越後栃尾村の嘉蔵氏らによって稼行される。
文化4年(1807年)秋田の幸吉なづ銅の吹き子が数十人の配下を引き連れて稼行した。
明治30年(1897年)磯村某氏が稼行し、銅を5貫から6貫を生産した。
昭和15年から昭和20年(1940年から1945年)日本鉱山株式会社が稼行した
参考資料『日本の鉱床総覧』『会津田子倉の歴史 上巻』『東北鉱山風土記』

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