相内鉱山(あいないこうざん)は秋田県鹿角郡小坂町字相内(当時)に有った、黒鉱鉱山です。
小坂鉱山の北西6.5キロの地点に有り、元山事業所までバスが通っていて交通は便利な位置に有りました。
相内鉱山の概要
黒鉱、黄鉄鉱、珪鉱等の鉱石を採取し、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉱、重晶石、石膏などを生産した。
昭和37年までに銅を12000トン、鉛を5600トン、亜鉛を16400トン産出した。
金の品位は鉱石1トンあたり、2.9グラム、銀の品は鉱石1トンあたり106グラム、銅の品位は2.3%、鉛の品位は1.62%、亜鉛の品位は4.73%、硫黄の品位は19.11%との記録が有ります。
鉱石は十和田南駅から貨車にて、三菱金属株式会社細倉鉱業所と秋田製錬所、昭和電工株式会社川崎工場、日産化学株式会社王子工場、古河電工大阪製錬所などに出荷されました。
昭和37年までの坑道延長は19.6キロメートル。
主な鉱床に大黒鉱床、湯の沢鉱床、横俵鉱床、弁天鉱床、末広鉱床、金山沢鉱床が有った。
昭和40年8月末の時点で人員は447名おり、社宅、アパート、会館、診療所、浴場、グラウンド、テニスコートなどが整備されていました。
相内鉱山の歴史
文久元年(1861年)頃、小坂鉱山の発見者である、小林与作なる者が金山沢鉱床を発見する。
明治40年(1907年)頃、黒鉱塊を小坂鉱山に売鉱した。
大正年間 試錐探鉱を実施するも鉱床を見つける事が出来ず休山した。その後権者が数人入れ替わる。
昭和11年(1936年)前鉱業権者、中西伸次氏が鉱山を買収。金山沢、畑沢坑から若干の鉱石を採掘し売却した。
昭和17年(1942年)珪鉱鉱床の湯の沢鉱床を発見し、露天掘りを開始した。銅の品位は1.2%。
昭和18年(1943年)戦時緊急開発重要指定鉱山の指定を受け、1日に400トンの処理選鉱場建設に着手。
昭和20年(1945年)選鉱場が完成する。
昭和21年(1946年)終戦後、社会情勢混乱の為に休山。
昭和25年(1950年)11月に大揚鉱山株式会社と中西伸次氏との共同経営により鉱山を再開する。
昭和28年(1953年)2月には、月に3750トン処理を行える選鉱場設備を建設する。
昭和30年(1955年)3月に黒鉱鉱床の末広鉱床を発見する。
昭和31年(1956年)4月に黒鉱鉱床の大黒鉱床を発見する。選鉱場設備を増設し月5000トンの処理に対応。
昭和32年(1957年)8月に大揚鉱山株式会社と蔵王鉱業株式会社が対等合併し、操業会社が日東金属鉱山となる。
昭和32年(1957年)10月に弁天鉱床を発見する。
昭和35年(1960年)横俵鉱床を派遣する。珪鉱を月に2500トン、黒鉱を月に4000トン選鉱処理に対応。
昭和36年(1961年)黒鉱を月に6500トン選鉱処理に対応。
昭和34年(1962年)黒鉱を月に8300トン選鉱処理に対応。
昭和60年(1985年)閉山となった。
参考資料『日本の鉱床総覧 上巻』『東北鉱山 12(1)』
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