千原鉱山は愛媛県周桑郡丹原町大字千原(旧櫻木村)に位置した鉱山で、千原鉱業株式会社が稼行していました。

千原鉱山の概要
千原鉱山は古く松山藩の藩主に稼行されていたとされ、1736年(享保21年)の小松藩会所日記に銅山からの鉱水により田畑の不作に関する願いが提出されていたとの記録が残ります。

明治期から大正初期には幾人かの手に渡り稼行さえ、大正9年に中江産業合資会社が鉱山の鉱業権を取得して昭和13年まで操業。その後は休山を経て近藤耕郎氏や北内文一氏などが鉱山を稼行するも、昭和20年に休山となる。
昭和23年に千原鉱業が鉱山を取得し、昭和38年9月まで操業を行った。
千原鉱山の千原鉱業創業時の鉱業権情報は以下。
鉱種名:銅、硫化鉄鉱
鉱区番号:愛媛県採登35号
鉱業権者:千原鉱業
千原鉱業は古くから煙害や鉱山廃水の公害を発生させており、明治期から幾度となく地元住民からの公害問題に関する陳情が出されています。
千原鉱業の鉱床

千原鉱山の鉱床は主なるものが上下に離れて2層見られた。
上部𨫤は下りの斜坑により約800mの長さを採掘した。
上部𨫤には2坑鉱床、3坑鉱床、4坑鉱床などが有った。
下部𨫤はさらに上下の𨫤と中央部の𨫤に分かれていた。下部𨫤も斜坑により1,200mの長さが採掘された。
下部𨫤の上𨫤は厚さ0.3~1.5m。巾50m。
下部𨫤の中𨫤は厚さ0.3~1.5m。巾15m。
下部𨫤の下𨫤は厚さ0.3~1.8m。巾30m。
鉱床に含まれる金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、時に赤鉄鉱を伴った。
黄銅鉱は主にネットワーク状となっており、黄鉄鉱の粒の間を充填していた。
微量鉱物として、閃亜鉛鉱も見られた。
昭和36年までの坑道総延長は5,000m。
過去の総産出金属量は銅が4542t、硫黄が52,047t。
千原鉱山の歴史
往時松山藩の藩主により稼行され、採掘と製錬が行われたと伝えられている。
1868年(明治初年) 佐々木貫一氏が再開坑し、久門益太氏、春原偶太郎両氏の手を経た。
1904年(明治37年) 鉱山が中江種造氏に移り大正3年まで採掘製錬を行う。
1915年(大正4年) 福田祐二氏に移り売鉱中心の操業となる。
1920年(大正9年) 9月に中江産業合資会社が鉱業権取得。昭和初年まで月産1,000〜1,500tを採掘。
1938年(昭和13年) 休山となる。
1942年(昭和17年) 近藤耕郎氏が鉱山を譲受ける。
1943年(昭和18年) 北内文一氏との共同権者となり、新たに開坑する。
1944年(昭和19年) 4月に鉱業権者が変り同20年6月に休山となる。
1948年(昭和23年) 稼行を再開する。
1948年(昭和23年) 5月に鉱山を千原鉱業が継承する。
1963年(昭和38年) 9月まで操業を行う。
参考資料『日本の鉱床総覧』『地質調査所月報 12(1)』『四国鉱山誌』『日本地方鉱床誌 四国地方』『小松町誌』『近代日本の公害 : 資料』『大阪商人太平記 明治後期篇 上』


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