河山鉱山は山口県玖珂郡美川町(旧河山村大字添谷)に位置した鉱山で、鉱業所は海抜97m、採鉱所は267mの高さに有りました。
日本鉱業株式会社により稼行されていました。
河山鉱山の概要
河山鉱山は1658年(万治元年)に紀州高野山の名僧である、清安上人が発見したと伝えられています。明治以降は経営者が度々変わり、明治20年には竹田氏が経営し、後の昭和11年に日本鉱業株式会社から日本鉱業が買収しました。

日本鉱業の買収後は大鉱脈の発見などにより、生産体制が固まりました。
第二次世界大戦後は食料増産のための肥料として、硫化鉱の増産や設備の機械化と合理化により生産量は飛躍的に伸びました。
昭和30年代には最盛期となり従業員は900名以上、昭和35年の年間生産量は36万トンを記録しました。


鉱石の運搬についても昭和35年に国鉄の岩日線が岩国駅から河山駅まで開通したことにより、トラック輸送から鉄道輸送に切り替えられ運送量も増えました。
鉄道により岩国駅まで運搬された鉱石は岩国駅で別路線に乗り換えたり、岩国港から船便により日本各地の出荷先へと運ばれました。


しかし、昭和40年代には鉱石が枯渇し始めた事や、落盤事故、鉱滓流出事故などが発生したことにより1971年(昭和46年)に閉山となりました。
昭和29年頃の鉱山情報は以下。
鉱業権者:日本鉱業株式会社
鉱区番号(採掘):山口県採登507号、695号、696号、697号。
鉱区番号(試掘):山口県試掘登録:6529号、6765号、6766号、6768号、6769号、6770号、6771号。
鉱種:銀、銅、硫化鉄鉱
昭和34年頃の鉱石の販売先は以下。
銅精鉱:日本鉱業佐賀関製錬所
硫化精鉱:宇部興産宇部、三菱化成黒崎、日産化学小野田、八幡製鉄所八幡、住友化学新居浜、東洋高圧大牟田
亜鉛塊鉱:日本鉱業岩国工場
河山鉱山の鉱床について
河山鉱山の鉱床は走向延長1,000m、傾斜延長600m、脈幅2~25m。
鉱床は層状で、北断層、東谷断層によって3区に分割されている。



露頭の延長は250m。露頭からの開発深度は260m。
露頭の鉱石は貧弱で有った。
鉱脈に含まれる金属鉱物は主として磁硫鉄鉱からなり、黄銅鉱、鉄閃亜鉛鉱、黄銅鉱を含み、比較的少量の硫砒鉄鉱、微量のキューバ鉱を含む。
鉱床上部の鉱石は塊状細粒の磁硫鉄鉱からなり、下部の鉱石は比較的粗粒の磁硫鉄鉱であった。
鉱床の周りは石灰岩に囲まれており、鉄閃亜鉛鉱は石灰岩に隣接する部分に濃縮されていた。
鉱脈の微量の鉱物には鉛の他、金が0.2g/t、銀が17g/t、砒素が0.04%、アンチモン0.02%、コバルト0.015%、セレン0.015%、三酸化タングステン0.002%が見られた。
鉱床の下部では石灰岩との間にスカルン鉱床が見られ以下の多くのスカルン鉱物が見られた。
灰鉄柘榴石、けい灰鉄鉱、灰鉄輝石、透ヘテロゲン鉱、針鉄鉱、方解石、菱亜鉛鉱、あられ石、孔雀石、水亜鉛銅鉱、灰重石、コバルト華、葉銅鉱、灰ばんざくろ石、灰鉄ざくろ石、けい灰鉄鉱、異極鉱、電気石、透輝石、灰鉄輝石、けい灰石、バビントン石、ノントロン石、けい孔雀石、アロフエン、ヒシンゲル石。
昭和36年までの坑道総延長は10,389m。
昭和26年から36年までの総産出量は出鉱量が271万t。
銅品位は0.74%。
含有銅量は19,926t。
河山鉱山の歴史
河山鉱山の発見は約370年前の万治元年に紀州高野山の名僧である、清安上人が発見したと伝えられている。
1887年(明治20年)竹田氏が経営。それ以降幾度かの経営者の変更や興廃が有った。
1936年(昭和11年)鉱山を明治鉱業より日本鉱業が買収し、昭和21年より操業を開始している。
1951年(昭和26年)月産10,000tを記録する。
1955年(昭和30年)月産16,000tを記録する。
1956年(昭和31年)月産21,000tを記録する。
1959年(昭和34年)月産29,000tを記録する。
1964年(昭和39年)月産24,000tとなる。
1969年(昭和44年)東谷付近の坑道内で崩落事故が発生する。
1970年(昭和45年)5月21日の未明に鉱滓の流出事故が発生する。
1971年(昭和46年)採掘条件の悪化や前年の事故が原因で3月に閉山となる。
参考資料『日本の鉱床総覧』『山口県の地質』『日本鉱産誌 B 第1-b (各論 主として金属原料となる鉱石 銅・鉛・亜鉛)』『日本の層状含銅硫化鉄鉱床総覧』『鉱床と地質構造 第1 (日本鉱業会技術叢書 ; 第8輯. 鉱床探査 ; 第1)』『地質調査所月報 2(4/5)』『地質調査所月報 6(1)』『未利用鉄資源 第7輯(1959)』『未利用鉄資源 第1輯(1954)』『鉱山の物理探鉱 第1編』『美川町史 続』『目で見る岩国・柳井の100年』

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