手稲鉱山(北海道)

北海道の鉱山

手稲鉱山は北海道札幌郡手稲町金山に位置した鉱山です。
千歳鉱山株式会社により稼行されていました。

手稲鉱山の概要

手稲鉱山は現在の札幌市西区手稲町の手稲山の海抜450m付近に位置しており、かつては金の生産量が鴻之舞鉱山に次ぐ日本第2位の鉱山でした。

 

手稲鉱山は手稲石、渡辺鉱などの新鉱物や、リシェルスドルフ石、テルルを含んだ鉱物などの珍しい鉱物が発見され、鉱物界でも知られた鉱山となっています。

手稲鉱山は明治24年10月に星置地区の住人である鳥谷部弥平氏が、手稲山の北面に試掘を行い、これが手稲鉱山の発見の発端となった。明治26年に鳥谷部氏が鉱業権を取得し、財産を投げうって明治40年まで探鉱を行いましたが、思ったような成果が出ずに放棄しています。

大正2年に手稲山一帯に山火事が発生した事で、山肌が露出して金鉱脈がさらされ、大正7年になると北海道庁の技師で有った石川貞治氏が鉱脈を発見し、鉱山の開発に着手して手稲鉱山と呼称した。石川は竪坑や𨫤押坑道などを掘削しましたが、成果が出せずに休止しています。

その後は川崎幸輔氏や吉野榮藏氏らの手に渡った後に、昭和3年に札幌の広瀬(廣瀬)省三郎氏が鉱業権を取得し、昭和6年には選鉱場を建設するなどして開発が行われました。しかし、翌7年には成果が思わしくなく中止となっています。
当時の鉱区情報は以下となっています。

手稲鉱山乃満能沢鉱業所
位置:石狩国札幌郡手稲村大字下手稲村
鉱区:採掘登録 第298号、301号 試掘登録 第6,930号
鉱種:金、銀、銅、

昭和8年には小坂同和鉱山(藤田鉱業)に売却(または広瀬氏との共同開発)され、昭和10年に三菱鉱業株式会社が手稲鉱山を200万円で入手して開発が行われました。また、三菱の手に渡る前に一時期後藤田鉱業が経営をしたとの記録も有ります。

昭和13年に三菱は手稲鉱山に隣接する鉱区を24万円で、輪西鉱山株式会社から買収し、昭和15年には星置選鉱場、黄金沢・三ツ山・選鉱場を結ぶ通洞を開発して本格的な操業を行います。

 

昭和18年になると太平洋戦争の金山整備令により、金山としては操業を停止し、銅を主として生産する鉱山になりました。なお、銅を産出する際に出る鉱石からは金を回収し、昭和18年は1,152kg、翌19年は708.1kgの金を生産しています。

戦後の昭和25年には財閥解体により三菱鉱業から太平工業の手に渡り実質休山状態となり、残務処理と含有量が多い部分のみの採掘を行いました。昭和29年になると鉱山は荒川鉱業に引き継がれ、同32年には千歳鉱業の経営となっています。

その後は幾人か経営者が変わるも、昭和46年に完全閉山となりました。

 

昭和41年までの坑道総延長は113,236m。
試錐総延長は3,746m。

昭和41年3月までの金属総産出量。
金:10,222kg。
銀:157,742kg。
銅:7,291t。

手稲鉱山の鉱床

手稲鉱山の鉱床に含まれる金属鉱物には自然金、自然テルル、雄黄、鶏冠石、輝安鉱、輝蒼鉛鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄鉄鉱、白鉄鉱、紅銀鉱、シルバニヤ鉱、ペッツ金鉱、リッカルド鉱、黄銅鉱、硫砒銅鉱、ルソン銅鉱、四面銅鉱、自然銀、自然銅、褐鉄鉱、酸化マンガン鉱、酸化テルル鉱、孔雀石、藍銅鉱、硫酸鉄鉱物、手稲石、銅蒼鉛硫酸塩鉱物などが見られています。

手稲鉱山には多くの鉱床があり、主な鉱床は以下となっています。

大豊𨫤
鉱脈数1、走向N85°E、傾斜65°N。
既開発の走向延長1,010m、傾斜延長310m、平均脈幅1.80m。
平均品位の記録はなし。
露頭鉱床の露頭から最下部への深度300m。

繁盛𨫤
鉱脈数2、走向N30°W、傾斜70°N。
既開発の走向延長910m、傾斜延長300m、平均脈幅1.55m。
潜頭鉱床は上限80m、下限320m。

新盛𨫤
鉱脈数1、走向N80°E、傾斜80°S。
既開発の走向延長450m、傾斜延長260m、平均脈幅2.10m。
露頭鉱床の深度210m。

妙高𨫤
鉱脈数1、走向N40°E、傾斜75°S。
既開発の走向延長410m、傾斜延長270m、平均脈幅1.40m。
露頭鉱床の深度260m。

金盛𨫤
鉱脈数1、走向N30°W、傾斜85°N。
既開発の走向延長450m、傾斜延長240m、平均脈幅1.00m。
平均品位はAu 10.3g/t、Ag 58g/t、Cu 0.2%。
潜頭鉱床は上限90m、下限320m。

明盛𨫤
鉱脈数1、走向N30°E、傾斜80°N。
既開発の走向延長380m、傾斜延長250m、平均脈幅1.65m。
露頭鉱床の深度200m。

滝ノ沢𨫤
鉱脈数1、走向N35°W、傾斜75°S。
既開発の走向延長800m、傾斜延長210m、平均脈幅1.10m。
平均品位はAu 5.7g/t、Ag 160g/t、Cu 0.68%。
露頭鉱床の深度200m。

鳥谷部𨫤
鉱脈数10、走向N30°W、傾斜70°S。
既開発の走向延長540m、傾斜延長210m、平均脈幅1.50m。
平均品位はAu 7.0g/t、Ag 107g/t、Cu 1.12%。
露頭鉱床の深度200m。

第三露頭𨫤
鉱脈数1、走向N55°W、傾斜70°S。
既開発の走向延長550m、傾斜延長240m、平均脈幅1.00m。
平均品位はAu 1.4g/t、Ag 188g/t、Cu 1.75%。
露頭鉱床の深度240m。

南北𨫤
鉱脈数1、走向N20°E、傾斜75°N。
既開発の走向延長700m、傾斜延長200m、平均脈幅1.25m。
露頭鉱床の深度200m。

テルル𨫤
鉱脈数1、走向N60°W、傾斜75°S。
既開発の走向延長150m、傾斜延長70m、平均脈幅0.40m。
露頭鉱床の深度70m。

三光𨫤
鉱脈数1、走向N50°W、傾斜75°S。
既開発の走向延長330m、傾斜延長130m、平均脈幅0.65m。
露頭鉱床の深度130m。

八年𨫤
鉱脈数1、走向N75°E、傾斜50°S。
既開発の走向延長500m、傾斜延長120m、平均脈幅1.00m。
露頭鉱床の深度120m。

八朔𨫤
鉱脈数1、走向N40°E、傾斜75°S。
既開発の走向延長500m、傾斜延長90m、平均脈幅0.60m。
露頭鉱床の深度90m。

次豊𨫤
鉱脈数1、走向N50°W、傾斜80°S。
既開発の走向延長530m、傾斜延長200m、平均脈幅1.35m。
潜頭鉱床は上限60m、下限260m。

手稲鉱山の歴史

1893年(明治26年)星置地区の住人鳥谷部弥平氏が発見し、鉱業権を獲得する。以降1907年(明治40年)まで探鉱を実施する。
1918年(大正7年)北海道庁の技師である石川貞治氏が開発に着手し、手稲鉱山と呼称する。
1928年(昭和3年)札幌の広瀬省三郎氏が鉱業権を獲得する。
1935年(昭和10年)三菱鉱業株式会社の経営となる。
1939年(昭和14年)星置通洞、選鉱場完成する。月産粗鉱量50,000tとなる。
1947年(昭和22年)規模が縮少する。月産粗鉱量2,000tとなる。
1954年(昭和29年)荒川鉱業株式会社の経営となる。
1957年(昭和32年)千歳鉱山株式会社の経営となる。
1961年(昭和36年)選鉱場が完成する。月産粗鉱量700tとなる。
1971年(昭和46年)この年に閉山しました。

 

参考資料『日本の鉱床総覧』『手稲の今昔 : 手稲開基110年誌』『地域研究所年報 (6)』『ていねきた : 郷土誌』『札幌の通り (さっぽろ文庫 ; 58)』

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