花輪鉱山(岩手県・秋田県)

花輪鉱山は岩手県二戸郡安代町(当時)に有った黒鉱鉱山です。
鉱山事務所は岩手県安代町に有りましたが、鉱山施設の一部は秋田県鹿角市花輪にも広がっていました。

花輪鉱山の概要

花輪鉱山は江戸時代から盛岡藩などにより稼行され、外山鉱山や板屋平鉛銅山としても稼行されていた。

主な鉱床は本山鉱床、三平鉱床、安代鉱床、大崎鉱床、明通鉱床が有った。

本山鉱床は主に石膏と黄鉄鉱からなっており、5つの鉱体が有った。局部的に黄銅鉱や斑銅鉱、輝銅鉱に富む部分が有り、北側には磁鉄鉱及び磁硫鉄鉱が見られた。
三平鉱床は本山鉱床に似た鉱質っで、黒鉱、硫化鉄鉱などが見られた。黒鉱の多くは礫状であったが、北緯部では纏まった1つの鉱体となっていた。
安代鉱床には5つの鉱床が有り、安代本鉱床には斑銅鉱、黄銅鉱、四面銅鉱、閃亜鉛鉱があり、石膏が局部的に見られた。
明通鉱床は著しい層状の石膏でと黒鉱鉱床で、上盤は重晶石に富む黒鉱で、その下は次第に黄銅鉱を増し、局部的に黄鉱を成し、下盤は石膏となっていた。

坑道は昭和37年までに、𨫤押坑道が7,831メートル、立入坑道が17,129メートル、堀上坑道が2,526メートル、斜坑が706メートルの長さとなっています。

花輪鉱山の歴史

徳川時代 藩営の鉱山で外山鉱山と称していた。当時は相当反映していた。
明治6年(1873年)当時の花輪村の小野組が経営を行った。
明治13年(1880年)花輪村の吉田清兵衛氏が経営した。
明治43年(1910年)小林清一郎氏が経営し、花輪鉱山の名称に変更された。
大正9年(1920年)7月に久原鉱業株式会社が銅と硫化鉄の採掘で鉱山を買収し、1年間探鉱をしたが鉱業会の不況の為に中止した。
昭和4年(1929年)久原鉱業が日本鉱業株式会社へと改称し、日本鉱業株式会社が経営を行う。
昭和5年(1930年)10月に浮浪者の火の不始末により、鉄索鉱石明場の倉庫が全焼した。
昭和9年(1934年)急遽休山を発表する。
昭和11年(1936年)9月に花輪鉱山は探鉱出張所そして再開される。
昭和11年(1936年)選鉱場を建設。
昭和17年(1942年)選鉱場が一部消失し再建する。
昭和20年(1945年)終戦の混乱により操業中止するが、翌年4月から操業を再開する。
昭和26年(1951年)三平鉱床を発見する。
昭和32年(1957年)安代鉱床を発見する。
昭和37年(1962年)明通鉱床を発見する。

参考資料『日本の鉱床総覧』『鹿角市史 第3巻 下』

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