鰐淵鉱山は島根県平田市河下町(旧:簸川郡鰐淵村)に位置した黒鉱鉱山です。
明治から昭和初期は黒鉱鉱床を採掘し、戦後は石膏を主に採掘しました。
石膏の採掘量は一時期日本一の量を誇りました。
昭和鉱業株式会社が稼行していました。
鉱山事務所は鰐淵村の金平地区に有ったとの事。
鰐淵鉱山の全景
鰐淵鉱山の概要
鉱体には金山鉱体、乙女鉱体、大才鉱体がありました。
金山鉱体は小レンズ状に断続する黒鉱および比較的大きな塊状の珪鉱からなっている。
鉱体の大きさは50m×30m×15m、第二鉱体は40m×30m×20m。
往時は盛大に稼行されていたようですが、途中で休山となっています。
珪岩中には不規則に黄銅鉱や黄鉄鉱が濃集する部分が見られたとの事。
乙女鉱体は厚さが0.3~4mと不規則な塊状で、礫状を有する場合も有った。
閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱などが見られたとの事。
大才鉱体は金山鉱体や乙女鉱体とは異なる母岩となっています。
流紋岩と凝灰岩の間に鉱床が有り、閃亜鉛鉱、方鉛鉱を主として、少量の黄鉄鉱と比較的多量の重晶石が見られた。銅は殆ど見られなかったとの事。
往時は稼行されたが、後に休山となった。
露天掘りの他、坑道掘りを行っていました。
昭和37年までに坑道の総延長は32,220kmとなっています。
産出金属量としては明治44年~大正9年には銅951t、鉛2,122t。
昭和17年~昭和29年には銅283t、鉛6,390t。
大正3年には粗鉱9180トン、銅量140トン、亜鉛鉱1059トン、亜鉛303トンの記録が有る。
鰐淵鉱山の歴史
徳川時代から明治5年までは松江藩において鉱山の稼行が行われ、勝部元右衛門氏が請負い銅を目的に採掘していた。
明治5年(1872年)勝部氏が鉱山を譲り受け、さらに銅鉱石の探鉱を行ったが廃山となった。
明治24年(1891年)園山氏の試掘地となり、
明治27年(1894年)藤田傳三郎氏が譲り受けて2番坑道と3番坑道を開発した。
明治34年(1901年)稲垣平兵衛氏の所有となり採掘した鉱石は小串及室津の精錬所へ送ったが、利益には至らず中止となった、
明治37年(1904年)鰐淵鉱山は藤井浅一郎氏の手に渡った。
明治39年(1906年)オツト・ライミエル商会が加入し、新たに鰐淵鉱業合資会社を作り、長く銅と亜鉛鉱山として稼行された。
昭和12年(1937年)昭和鉱業株式会社が鉱山を買収。
昭和17年(1942年)石膏の生産を開始した。
昭和18年(1943年)大才選鉱場を建設した。
昭和24年(1949年)別所選鉱場を建設した。
昭和28年(1953年)黒鉱の乙女鉱体に着鉱した。
昭和30年(1955年)金山立坑の開削を開始した。
昭和31年(1956年)銅、亜鉛鉱の資産を中止し、石膏採掘のみとなる。
昭和36年(1961年)金山選鉱場完成、処理能力30000t/月となる。
昭和37年(1962年)金山立坑合理化工事が完成した。
昭和53年(1978年)閉山
参考資料『日本の鉱床総覧』『地質調査所月報 2(3)』『山陰地学ハイキング』『九州鉱山学会誌 10(12)』『鉱業 17(8)(197)』

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