鵜峠鉱山

鵜峠鉱山は島根県簸川郡大社町鵜峠(簸川郡鵜鷺村)に有った黒鉱鉱山です。
大宝鉱業株式会社により稼行されていました。
昭和31年もしくは32年に天青石(セレスタイト)が国内で初めて発見された鉱山として、鉱物ファンには知られています。

鵜峠鉱山の概要

古くから稼行されていた鉱山で、開発当初より網状銅鉱床を主体に開発され、後に石灰鉱床を採掘する鉱山となりました。黒鉱鉱床も発見されていましたが開発はほとんど行われなかったようです。

主に採掘されたのは銅となっており、銅以外にも鉛、亜鉛、黄鉄鉱、黄銅鉱、輝銅鉱、斑銅鉱、藍銅鉱、閃亜鉛鉱などが見られました。

主な網状銅鉱床には大盛鉱床、東竜鉱床、西竜鉱床、宝栄鉱床、丸本鉱床、船谷鉱床が有りました。
黒鉱式石膏鉱床には本体鉱床、北鉱床、南鉱床、東鉱床、西の谷第一鉱床、西の谷第二鉱床、2号山鉱床が有りました。
黒鉱鉱床には、外部黒鉱鉱床、丸本疎水鉱床となっています。

昭和37年までに坑道の長さが、大盛鉱床が1600m、西竜鉱床が1700m、船谷鉱床が750mとなっています。石膏鉱床においては3400mとなっています。

鵜峠鉱山の歴史

鵜峠鉱山の発見は大永年間(1521年頃)と非常に古く今から約500年前とされていますが、記録上に残るのは慶応年間からの開発となっています。

明治年間は主に銅鉱の採掘行い、大正以降は主に石膏採掘を行っています。

明治3年に島根県出雲郡坂田村の勝部本左ェ門氏が本格的な開発に着手し(勝部氏の発見事体は慶応4年)、船谷銅山として稼行しました。勝部氏は明治4年頃に露頭を掘り下げ本丸坑を通し明治8年まで稼行したが、その後は一時衰退しつつも明治10年に南方向に良鉱石を発見し、明治16年頃まで稼行しました。明治17念以降は衰退していきました。

明治20年6月に合名会社藤田組の経営となり、鵜峠鉱山の名称で大々的に採掘を行ったが、明治22年5月の銅の価格下落にともない採掘を中止。その後は小規模に製錬を行いました。

明治31年に一時期鵜鷺村の長島力之助氏の手に移り、主に沈澱銅の採取と硫化鉄を採掘しました。なお、長島力之助氏は当時藤田組の鵜峠鉱山支配人で有った。

大正5年に久原鉱業株式会社、日本鉱業株式会社と経営が変わり、主に石膏の採掘を行う鉱山となりました。

昭和26年に大宝鉱業株式会社の手に移り、主として石膏の採掘を行いました。

昭和45年(1970年)に閉山となりました。

参考資料『日本の鉱床総覧』『九州鉱山学会誌 18(6)』『九州鉱山学会誌 10(12)』『大社町総合年表』

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