中竜鉱山は福井県大野郡和泉村(和泉村大納38号藤倉地内)に有り、大野駅の南方36kmに位置していました。

中竜鉱山の概要
中竜鉱山は源平の合戦後に訪れた武士によって発見されたと言われています。
明治初期に、地元の農民である谷口和三郎氏によって発見され稼行されたのが鉱山としての始まりで、谷口氏は吉村寛十郎氏の協力を得て現在の中山坑の下部を8年間探鉱したが、思ったような成果が出せず稼行を断念。
明治27年になる徳野山氏が経営し、焼窯手吹炉で鉛と亜鉛を採取していましたが、日露戦争の終わりと共に休山しています。
明治後半の頃は深坂鉱山として稼行をしていましたが、大正期に入り経営を行った横浜は増田屋の貿易商である中村房次郎氏と竜田哲太郎氏の両名の苗字の1文字ずつを取って「中竜鉱山」となりました。その後両名は日本亜鉛鉱業株式会社を立ち上げ鉱山を稼行し、三井鉱山から出資を受けて三井の子会社となり大規模に発展しました。
日本亜鉛鉱業株式会社は昭和9年に設立となりましたが、この時に三井金属が株式の三分の一を取得しており、その後中村房次郎氏は岩手県の硫黄鉱山で有る松尾鉱山の資金をねん出するために、日本亜鉛鉱業株式会社の株式を2回に分けて三井に売り渡し、第二次世界大戦頃には三井の完全な子会社となりました。
三井での稼行時、採掘した亜鉛鉱は彦島の製錬所へ、鉛鉱は神岡鉱山に売却していたようです。
鉱山としては折からの不況と円高などにより、昭和62年に閉山となっています。
鉱石を掘りつくしての閉山は無いため、現在も数十年分の鉱石が残ったままと言われています。
中竜鉱山は昭和11年2月2日には大雪による雪崩で、鉱山事務所が倒壊し17名の死者が出ました。
なお、この年は大雪が降り中竜鉱山以外でも、2月5日に群馬県は草津の谷所硫黄鉱山の宿舎や事務所が雪崩に襲われ42人が無くなっています。
中竜鉱山の主な鉱床には中山鉱床、人形鉱床、赤谷鉱床、南仙翁鉱床、仙翁鉱床、中天井鉱床が有った。


昭和40年代後半の坑内図
昭和62年の鉱山閉山後は中竜鉱山の跡地を利用した体験施設『アドベンチャーランド中竜』として再利用された。
アドベンチャーランド中竜では専用バスにて地下の坑道の見学などが出来たが、来場者が少なく採算が取れなくなったため、平成18年に営業を終了した。
中山鉱床
スカルン鉱床と熱水性裂罅充填鉱床の鉱床で、スカルン鉱物には灰鉄輝石、珪灰石、柘榴石、透輝石。金属鉱物には閃亜鉛鉱、含銀方鉛鉱、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、硫砒鉄鉱などが見られた。
鉱体は芋状と不規則塊状のものが有り、最大の物で長さ30m×幅120m×深さ150m以上。12の鉱体が有った。
スカルン中にマンガンの含有量が多く、方鉛鉱にビスマスが見られた。
人形鉱床
中山鉱床から北西約800mの位置に有った。
スカルン鉱床と熱水性裂罅充填鉱床の鉱床で、スカルン鉱物には灰鉄輝石、珪灰石、柘榴石、透輝石。金属鉱物には閃亜鉛鉱、方鉛鉱、磁硫鉄鉱などが見られた。
鉱体は芋状と不規則塊状のものが有り、最大の物で長さ120m×幅25m×深さ700m以上。
11の鉱体が有った。
鉱床の西部には磁硫鉄鉱と磁鉄鉱が多く、東部は鉛と亜鉛が多く見られた。
露頭は海抜830m付近から人形山山頂1120mに至るまで、大小20の鉱床を含むスカルン露頭が幅200m×800mのは二で露出していた。
赤谷鉱床
スカルン鉱床と熱水性裂罅充填鉱床の鉱床で、スカルン鉱物には灰鉄輝石、珪灰石、柘榴石、透輝石。金属鉱物には閃亜鉛鉱、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、磁鉄鉱、硫砒鉄鉱、方鉛鉱、輝水鉛鉱などが見られた。
鉱体は不規則塊状と芋状で、最大の鉱体で長さ150m×幅45m×深さ150m以上。
7鉱体有った。
北部の石英斑岩に近い所には磁鉄鉱が多く、南部には鉛、亜鉛、銅が見られ、斑レイ岩に近い部分にはモリブデン帯が有る。
露頭は海抜900m付近から人形山の山頂に到る400m間に、磁鉄鉱露頭5つを含む、幅200mのスカルン帯が分布している。
赤谷鉱床は昭和31年(1956年)に発見された。
南仙翁鉱床
スカルン鉱床と熱水性裂罅充填鉱床の鉱床で、スカルン鉱物には灰鉄輝石、柘榴石、透輝石。金属鉱物には閃亜鉛鉱、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、磁鉄鉱、硫砒鉄鉱、方鉛鉱、輝水鉛鉱などが見られた。
鉱体は不規則な芋状の塊で、最大の鉱体で長さ120m×幅100m×深さ300m以上。
鉱床の東北部は亜鉛が多く、西部は鉛が多く見られた。
硫砒鉄鉱とコバルトを含有する柘榴石スカルンが主体であった。
露頭は海抜800m付近に、幅200m×延長500mのスカルン帯露頭が有る。
この地区にはファーブルと名付けられた鉱区が有ったそうで、スイスのファーブルブラント商会が以前に稼行をしていたと見られています。
仙翁鉱床
スカルン鉱床で、スカルン鉱物には灰鉄輝石、柘榴石、透輝石、珪灰石。金属鉱物には閃亜鉛鉱、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、方鉛鉱などが見られた。
鉱体は不規則な層状の塊で、最大の鉱体で長さ130m×幅300m×深さ100m以上。
13鉱体有った。
石灰岩との境界部分には鉛の品位が高く、石英斑岩に近い部分にあ亜鉛の品位が高い傾向に有った。
露頭は海抜820m付近にスカルンを伴う鉛と亜鉛の露頭が有り、300m×100mの範囲に分布していた。
中天井鉱床
スカルン鉱床と裂罅充填鉱床の鉱床で、スカルン鉱物には灰鉄輝石。金属鉱物には閃亜鉛鉱、黄銅鉱、方鉛鉱などが見られた。
鉱体は塊状と層状で、最大の物で長さ20m×5m×30m。
鉱床の東部に鉛と銅が多く見られた。スカルン中には高品位部が有る。
露頭は海抜900m付近に、幅20m×長さ500mにかけてスカルンと共に存在した。
中天井鉱床は、資料では弘永年間に発見されたと記載されているが、弘永という元号は無いのでミスかと思われる。
明治維新後に面谷鉱山の支山として開発され、明治19年(1886年)古河市兵衛が探鉱した。
明治25年(1892年)休山となるが、明治40年(1907年)三菱鉱業が鉱山を所有し一部開発するも休山。
昭和9年(1934年)に日本亜鉛株式会社が所有するが休山となる。
中竜鉱山の歴史
寛元年間(1240年)この頃に源平の乱後に京都より移住した武士が鉱脈を発見されたとされる。
明治7年(1874年)福井の吉村実十郎氏(寛十郎氏?)が、谷口和三郎氏が8年ほど稼行を行う。
明治27年(1894年)徳野山氏が銀を採掘していたが、日露戦争終了と共に休山となる。
明治37年(1904年)木村謙之助氏が『深坂鉱山』として稼行し、亜鉛と銅を採取。従業員は1000人程居たとの事。
明治40年(1907年)大坂亜鉛鉱業の社長である塩見政治氏が、経営に乗り出し50人を用いて3年探鉱した。
明治43年(1910年)大坂亜鉛鉱業が経営を行う。
大正2年(1913年)ベルギー人のグレグフル氏(グレーゴウワル氏)の出資により、スタンプ式選鉱方式にて無水露頭を開発し、鉛と亜鉛を採掘した。
大正15年(1926年)藤田組が調査を行い、後に横浜の中村房次郎氏と、鉱区所有者の竜田哲太郎氏により稼行が行われる。両名の苗字の1文字ずつを取「中竜鉱山」となる。
昭和9年(1934年)中村氏と竜田氏が日本亜鉛社(日本亜鉛鉱業株式会社)として操業を開始する。
昭和9年(1934年)2月に雪害に遭い、復旧に1か月かかる。
昭和16年(1941年)三井鉱山関連会社となり、三井から出資を受けて発展する。
昭和24年(1949年)休山となる。
昭和26年(1951年)稼行を再開する。処理能力は150t/日
昭和48年(1973年)この頃から合理化の為トラックレスマイニング方式に変更する。
昭和62年(1987年)不況と円高の影響により休山しその後閉山となる。
参考資料『日本の鉱床総覧』『和泉自治会Webサイト』『鉱山 34(4)(364)』『鉱山 33(4)(353)』『鉱山写真帖』『起業回想 (尾本信平)』


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