浅川鉱山は徳島県海部郡海南町(旧海部郡浅川村大字浅川字竹ノ内)に位置した鉱山です。
牟岐線の牟岐駅の南方約10kmのある。
藩政時代には高越鉱山を太郎鉱山、神山町神領の次郎鉱山、そして浅川鉱山を三郎鉱山と称し、三大鉱山として採掘されていました。
三菱金属鉱業株式会社により稼行され、主に銅や硫化鉱を採掘していました。
浅川鉱山の概要
古くは万延元年(1860年)に林目付の満石兵太氏が藩主の命を受けて海岸筋にて、金鉱脈の調査をお混っていた際、文久2年(1862年)に浅川村焼尾谷にて、銅鉱脈を発見し金盛山と名づけ但馬鉱山の鉱夫6名と地元の人を用いて採掘を行い、2か所の坑道を開いた。
1つの坑道は延長28丈6尺(約85m)、もう一つの坑道は1丈8尺(約5.4m)。一つの坑道から5貫の銅鉱石を採掘したがしばらくして鉱脈を失い採掘を中止した。
明治4年頃まで旧藩主の蜂須賀氏が経営を行っていた。
当時の坑口は後の鉱山よりもやや上部の焼尾谷の坑口で、後の阿波坑と呼ばれる付近で有った。
明治8年に入り高知県の人が鉱山の権利を得て、明治9年から13年に至る間は広島県の人に権利が渡った。
明治14年から15年頃に浅川村の坪根治太郎氏が本坑を経営したが、数か月で事業を中止。
明治16年から18年頃までは高知県の門田氏が事業を引き継ぎ、採掘や製錬を行ったものの本人が亡くなり中止となった。
明治19年から38年の間には数人に鉱山の権利が渡り、明治38年から39年の間は東京の伊藤氏が権利を得たものの採掘は行われなかった。
明治40年から41年にかけては兵庫県の小川惣次郎氏ほか2名の共同稼行となり、阿波坑の排水事業を行うも数か月で休止した。
明治42年12月に平野鍋吉氏が小川氏から鉱山を買収し試掘権にて採掘。大正元年からは採掘権を取得し発展した。
大正14年頃は従業員が50名おり、採掘した鉱石は大阪の喜多川氏に販売していた。
昭和4年(1929年)5月に平賀氏より三菱金属鉱業株式会社が買収しています。

浅川鉱山の鉱床
浅川鉱山の鉱床は本鉱床、西鉱床、戸矢坑鉱床、阿波坑鉱床の4つが有りました。


本鉱床は走向長35m、傾斜長250m、厚さが最大9.0m、平均厚さが4.5m。
鉱床の形状は扁平な芋状となっています。
鉱床に含まれる金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、磁硫鉄鉱。露頭付近で斑銅鉱や輝銅鉱が見られた。
西鉱床は本鉱床の第四坑道レベル西方30mの位置に有り、上下50m、走向延長20m、厚さ2m。
戸矢坑鉱床は本鉱床の東方200mの位置に有り、厚さ2m、延長10mの銅を含まない黄鉄鉱の鉱床。
阿波坑鉱床は本鉱床の北方300mの位置に有り、延長10m、厚さ2~3m、上下30mの銅成分が少ない黄鉄鉱の鉱床となっていた。
昭和35年までの坑道の総延長は3500m。
明治44年から昭和2年11月までの精鉱出鉱量は15,075t。産出銅量は814.05t。銅の品位は5.4%。
昭和2年11月以降は出鉱量は不明だが、銅の品位4~5%、硫黄の品位40%の鉱石を月に300~400t出鉱した。この頃の鉱石は小松島港から大分県の佐賀関などへ運ばれていたとの事。
浅川鉱山の歴史
慶応元年(1865年)阿波藩主蜂須賀氏が開坑。
明治時代に入り複数の鉱業権者を転々とする。
明治43年(1910年)徳島県の平賀鍋吉氏の経営となり盛んに稼行。
昭和4年(1929年)5月に平賀氏より三菱鉱山が買収。
昭和10年(1935年)鉱況不良となり休山。
参考資料『日本の鉱床総覧』『日本の層状含銅硫化鉄鉱床総覧 (鉱山地質特別号 ; 第1号)』『徳島県郷土地理』『新編鉱床地質学』『徳島100年 : 写真集 上』『徳島の自然地質 1 (徳島市民双書 ; 13)』『海部郡誌』


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