柳谷鉱山は愛媛県西宇和郡保内町須川(旧喜須来村須川)に位置した鉱山で、吉岡鉱業株式会社により稼行されていました。

柳谷鉱山の概要
柳谷鉱山は、明治22年に地元の兵頭家の庭園内に鉱脈が発見されて採掘が行われた。
翌明治23年に、地元の川之石村の経済人である白石和太郎氏に経営権の半分を譲渡して、兵頭氏と白石氏の共同経営となった。
鉱山では製錬所を設置して採掘から製錬まで行っていたが、鉱毒や煙害が発生しその補償問題で住民から訴えられ、裁判の結果多額の賠償金を支払う事となる。その賠償金の額が多く、鉱山の収支が成り立たなくなったことから、明治26年に休山となる。

兵頭氏、白石氏の各自は、年間370トン以上を産出していた。
この当時の銅と銀の品位を大阪造幣局に分析を依頼しており、サンプル中の銀の含有量が0.024%、銀の含有量が98.520%となっていた。
賠償金問題で休山後は、川之石村の矢野荘三郎氏に権利を譲渡した。矢野荘三郎氏は矢野鉱業として大正末期まで稼行を行っていた。
太平洋戦争後長期にわたって休山されていたが、昭和28年8月に吉岡鉱業株式会社により再開されたが、鉱況の不良となり昭和39年7月に休山となる。
柳谷鉱山の鉱床
柳谷鉱山の鉱床は笹の葉状で、走向延長が80m、傾斜延長が300m以上。
鉱脈の幅は0.1~0.7m。
鉱脈に含まれる金属鉱物には、黄鉄鉱、黄銅鉱、磁鉄鉱で、緻密塊状および縞状となっていた。
昭和36年までの坑道延長は約1,500mで、竪坑により連絡されていたが水没しているとの事。
昭和36年までの総産出金属量は粗鉱量で、5,500t。
銅品位は2.43%、硫黄の品位は19.09%。
柳谷鉱山の歴史
明治22年(1889年)この年の末に兵頭家の庭園内に鉱脈が有るのを発見する。
明治23年(1890年)鉱山の権利の半分を地元の経済人である白石和太郎氏に譲渡し、兵頭氏との共同経営となる。
明治26年(1893年)鉱山の煙害により多額の賠償金が発生し、収支が成り立たず休山。その後、矢野荘三郎氏に権利を譲渡。
大正末期 この頃まで矢野鉱業が盛んに稼行した。
昭和28年(1953年)7月に吉岡鉱業株式会社により再開され取明けが行われる。
昭和29年(1954年)9月より本格的に採掘が行われる。
昭和39年(1957年)鉱況の不良となり、7月に休山となる。
参考資料『日本の鉱床総覧』『日本の層状含銅硫化鉄鉱床総覧』『Front 12』『保内町誌』

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