佐賀関鉱山(大分県)

佐賀関鉱山(佐賀の関鉱山)は大分県北海部群佐賀関町に位置した鉱山で、日本鉱業株式会社が稼行していました。

佐賀関鉱山の概要

佐賀関鉱山は古くは金山とされ、一説によると慶長年間(1596年から1615年)に発見されたとされ、慶長5年(1600年)に発生した石垣原の戦いに関連する佐賀関の戦いにて被害を受けた記録が有るようです。また200年前の採掘跡も残っているとの事。

明治20年代に入ると愛媛の清家勝三氏により採掘を行い、その際に旧坑が見つかり開発が行われた。明治27年3月頃から28年にかけて製錬所が設置され操業を行いましたが、煙害が発生し付近の農作物や樹木に多大な影響が発生しました。

明治28年には愛媛県浮穴群久万町の山口静夫氏の所有となるも、数年間採掘は行われませんでした。
明治32年に入り山口氏は愛媛県西宇和郡伊方村の九町鉱山の鉱石を運び精錬所を設置する準備を始めましたが、以前の煙害で被害を受けた地域住民から反対運動を起こされ、福岡鉱山監督署より精錬所の設置は却下されました。

明治38年に入ると芝義太郎氏が盛大に稼行し、採掘した鉱石は海上輸送にて秋田県の椿鉱山に運んでいました。大正期に入ると日本鉱業の前身である久原鉱業の手に渡り操業を行いましたが、徐々に採掘状況も悪化し昭和28年に休山となりました。

現在、佐賀関に有る精錬所(パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所)は佐賀関鉱山に関連して設置された物になります。

明治期に佐賀関鉱山で銅の製錬が行われていましたが、煙害で農作物に甚大な被害が出て、明治28年頃に操業が停止されました。大正期に入り鉱山を久原鉱業が買収したことにより、佐賀関鉱山付属の製錬所として、現在の製錬所の元となる精錬所を大正5年に建設しました。
この建設の際に煙害を防ぐため、当時世界一の高さ167.6mの大煙突が建設されました。

佐賀関鉱山の鉱床

佐賀関鉱山の鉱床は本𨫤と新坑𨫤の2つが有りました。
本𨫤は走向延長130m、傾斜延長50m。
新坑𨫤は走向延長160m、傾斜延長120m。

鉱脈に含まれる金属鉱物には黄鉄鉱と黄銅鉱を主とする塊状鉱物で、磁鉄鉱や磁硫鉄鉱を少量伴っていました。

昭和36年までの坑道総延長は1,000m以上。
採掘鉱量は日本鉱業の操業から昭和28年まで、28,000t、銅品位0.9%、硫黄の品位40%となっています。

佐賀関鉱山の歴史

古くは金山と称され、慶長年間の発見とされる。
1892年(明治25年)この頃に愛媛県の清家勝三(勢家)(勝蔵)氏が発見したと言われています。この頃製錬による煙害が発生する。
1895年(明治28年)10月に山内濺雄(静雄)氏が鉱山を譲り受けた。
1902年(明治35年)3月に井部榮範氏が鉱山を取得する。
1905年(明治38年)芝義太郎氏により鉱山が稼行され、坑口を新たに4つ開き、月間2000tを出鉱しました。
1911年(明治44年)鉱山が武田恭作氏が鉱山を譲り受ける。
1914年(大正3年)4月に日本鉱業の前身である、久原鉱業株式会社の手に移り、下部探鉱により富鉱部を発見し盛大に稼行しました。
1931年(昭和6年)この頃より断続的に小規模の稼行を行う。
1953年(昭和28年)休山となる。

 

参考資料『日本の鉱床総覧』『日本の層状含銅硫化鉄鉱床総覧』『九州鉱山学会誌 29(3)』『明治前期産業発達史資料 別冊 87 1』『日本鉱業佐賀関製錬所 五十年のあゆみ』『佐賀関街道 : 関往還』

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