柵原鉱山は岡山県久米郡柵原町に位置した鉱山で、同和鉱業株式会社により稼行された鉱山です。

柵原鉱山の概要
柵原鉱山は古くは津山森藩初代藩主の森忠正が津山城を築城する際の石材収集中に、鉱床の露頭を発見したのが始まりとされています。

大正に入り藤田組が鉱山を経営し、後に同和鉱業が鉱山を稼行しました。
1966年には年間80万トンの鉱石を出鉱するなど、日本有数の鉱山となりました。
しかし硫化鉄から精製していた硫黄が、石油精製時からの脱硫や硫黄回収により安価に生産された事や、化学肥料の国内消費量が減ったことから硫化鉄の需要が減少し、柵原鉱山の硫化鉄生産も落ち込みました。さらに、円高により海外からの輸入鉱石が安価に入手できるようになり柵原鉱山の鉱石の販路が無くなり、1991年(平成3年)3月28日に閉山となりました。
鉱山操業中の総出鉱量は2650万t、操業中に亡くなった作業員は102名。
鉱山として閉山後の跡地では同和鉱業関連会社のDOWAエフテック(フェライト素材等の製造)や産エコシステム山陽(業廃棄物処理)などの企業が操業を行っています。
坑道は最上部以下は坑内水により水没していますが、上部坑道はワインの貯蔵や味噌の熟成、茸や黄ニラの栽培、根菜や芋の貯蔵などに利用されています。
またトロッコ整備空間は低酸素トレーニング施設「ハイポキマイン・走路・やなはら」として利用されています。
柵原鉱山に関連する施設として片上鉄道の吉ヶ原駅と操車場跡に、柵原鉱山の様子や鉱山町を再現する資料館「柵原ふれあい鉱山公園」が整備されました。
ここでは片上鉄道の車両動態保存されている他、月に1回程度で坑道見学会も実施しています。
柵原鉱山の鉱床
柵原鉱山の鉱床は全長2,000m、傾斜長1,500m以上、幅300~400m、厚さ50m前後。
露頭は海抜150m付近に位置し、距離で500mに渡って開発されている。


鉱床に含まれる金属鉱物には硫化鉄鉱、磁硫鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱が有る。
硫化鉄鉱は細粒の黄鉄鉱結晶の集合体となっている。極めて微細緻密なものから径1mm程度まで見られる。
磁硫鉄鉱は硫化鉄鉱鉱体の周囲を1~10mの厚さで殻状に取り囲んでいる。
主な鉱床には高原鉱床、金堀鉱床、宝殿鉱床、休石鉱床、火の谷鉱床、下谷鉱床、火田城鉱床、久木鉱床、旧久木鉱床、下柵原鉱床などが有った、
鉱床群のうち本鉱床は連続した膨大な鉱体で、形状は塊状からレンズ状となっていた。
昭和36年までの坑道の総延長は約1400km。最深部は地下1000m。
昭和36年までの総産出金属量は15,806,600t。
硫黄量は7,429,000t、鉄量は6,955,000t、銅量は39,500t。
柵原鉱山の歴史
慶応年間に津山森藩初代藩主の森忠正が津山城を築城する際の石材収集中に、柵原鉱床第一鉱体の露頭部を発見したのが始まりとされる。
1882年(明治15年)地元の福田利平氏が森忠正見つけた露頭から約200m程離れた、小字尺当で硫化鉄鉱の露頭(下柵原鉱床)を発見し採掘を行った。
1884年(明治17年) (明治17年)福田利平氏が発見した露頭は岡山県の人日下部虎治氏へ譲渡された。柵原鉱山と称して稼行を開始する。
1893年(明治26年) 現在の旧久木鉱床で含銅硫化鉄鉱床を発見し、久木鉱山と称して稼行する。
1894年(明治27年) 下柵原鉱床を矢吹正誠氏に売却する。現在の下谷鉱床発見する。
1895年(明治28年) 現在の休石鉱床発見する。
1900年(明治33年)矢吹氏は褐鉄鉱の露天掘りを行い、柵原褐鉄鉱山として鉱石を八幡製鉄所に送る。なお柵原褐鉄鉱山に専念するため、 下柵原鉱床を泉豊次郎(下山豊次郎)氏に請負操業させる。
1902年(明治35年)八幡製鉄所の事業縮小のため、柵原褐鉄鉱山を一時休山する。
1904年(明治37年)この頃日露戦争開戦に伴い、柵原褐鉄鉱山を再開する。
1905年(明治38年)柵原褐鉄鉱山を鳩山和夫(政治家鳩山一郎氏の父)ら3名に譲る。
1907年(明治40年)日露戦争後の不況や湧水の排水困難などにより9月に休山する。
1912年(明治45年)3月に下柵原鉱山に下山豊次郎氏が休山中の柵原褐鉄鉱山を買収して、下柵原鉱山と併合し柵原鉱山として稼行する。
1913年(大正2年)水没していた坑内の排水のために津山電機株式会社から電気を購入する。
1915年(大正4年) 合名会社藤田組が付近一帯の鉱区(柵谷、村瀬、休石、興成、久木、和気、金堀、愛産鉱区)を買収統一して稼行する。
1916年(大正5年)藤田組が柵原鉱山の鉱区を60万円で買収する。
1917年(大正6年) 合名会社藤田組から鉱業部門を独立させ、藤田鉱業株式会社を設立する。
1918年(大正7年)7月に大雨により大規模な地滑りと崩落が発生し、吉井川をせき止め柵原鉱山の坑内が水没する。
1919年(大正8年)水没被害から復旧し2月より採掘作業が開始される。
1920年(大正9年)小坂鉄道の古レールを利用し天瀬-和気間に人車軌道を敷設して吉井川の減水期の鉱石輸送に用いた。
1921年(大正10年) 沈澱銅の採収を開始する。
1923年(大正12年) 5月に柵原-久木と久木-矢田間に索道が完成する。8月に矢田-片上港間に鉄道が完成する。
1926年(大正15年) 9月に現在の第2鉱体を発見する。鉱体の規模は東西約200m、高さは1番坑から6番坑下部へと連なるサイズ。
1929年(昭和4年) 現在の第3鉱体を発見する。
1931年(昭和6年) 吉ヶ原選鉱場が完成。片上鉄道全線開通(矢田-柵原間)する。
1932年(昭和7年)9月に職員の慰安施設である久木集会場(収容規模3000人)が完成する。
1937年(昭和12年) 合名会社藤田組と藤田鉱業株式会社とが合併し、株式会社藤田組を設立する。
1942年(昭和17年) 大正12年から休山していた大森鉱山を柵原鉱山の支山として再開するも、翌年8月に台風の水害に遭い坑内が水没して休業となった。
1943年(昭和18年) 久木鉱床で含銅硫化鉄鉱を発見する。
1943年(昭和18年) 2月に第1鉱体4番坑中段付近から火災が発生したため、坑内水を貯めるため第1鉱体を封鎖した。第1鉱体2番坑以下は長らく休止となった。
1945年(昭和20年) 9月に枕崎台風により吉井川が氾濫し、水が坑内に流入し鉱山の操業が翌年3月まで停止した。
1945年(昭和20年) 商号を同和鉱業株式会社と改称する。
1947年(昭和22年) 昭和天皇が柵原鉱山へ行幸した。
1951年(昭和26年) 4万トン起業完成、現在の下柵原鉱体を発見する。
1953年(昭和28年) 尼ヶ崎選鉱場岡山製錬所の操業を開始する。
1954年(昭和29年) 磁硫鉄鉱の磁力選鉱を開始する。現在の下部鉱体を発見する。
1956年(昭和31年) 低品位処理の第2選鉱場が完成し操業開始する。
1957年(昭和32年) 藤田興業株式会社を吸収合併する。
1960年(昭和35年)4月に30番坑の探鉱坑道から出水する。
1961年(昭和36年) 全長604mの柵原中央竪坑が完成する。月産7万t出鉱態勢を確立する。
1969年(昭和44年)10月に当時世界最大級の月産3万3000tの大型硫酸製造設備が完成する。
1978年(昭和53年)8月に鉱山縮小の対策として深部鉱床を撤収して水没させた。
1991年(平成3年)3月28日閉山となった。
参考資料『日本の鉱床総覧』『柵原鉱山顕彰誌』

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