群馬県の高崎炭田

群馬県の鉱山

高崎炭田とは

高崎炭田とは群馬県高崎市の南西の丘陵地帯から、安中市北西部にかけての範囲に位置しています。
炭田はおおむね碓氷川の沿って分布していますが、高崎市付近は碓氷川の南側、安中市付近は碓氷川の北側と、中心付近を碓氷川が二分しています。

古くは明治初年から採掘が行われたとされ、一時期は20以上もの炭鉱稼行した記録が有り、それ以外にも小規模な採掘場所が有った様子がうかがえます。1963年時点(昭和38年)では、興亜炭鉱・金井炭鉱・高崎炭鉱・松井炭鉱の4つのみとなっていました。

関東地方においては常磐炭田の次の規模を誇っていたようですが、1962年時点で関東地方の出炭量175万トンのうち97%が常磐炭田で、残りの3%程度(約52,800トン)が高崎炭田となっており、炭田としては小規模な物となっていました。

金井炭鉱の亜炭

興亜炭鉱付近の凝灰岩内の亜炭

興亜炭鉱付近の沢に落ちていた亜炭

高崎炭田の歴史

高崎炭田の亜炭に関しては江戸時代中期の文化年間(1804年から1818年)には存在が知られていたようで、文化年間に乗附山火事が数日燃え続いていたとき、その地下に燃える石が有るのを倉賀野の豪農である飯塚久敏氏が発見した記録があるようです。また、当時から、薪の代わりに燃料として使用されることも有った様です。

高崎炭田の鉱業として、最初に亜炭の採掘を行ったのは当時の片岡郡乗附村蛇場見の田島元七氏が知記録に出てきます。田島元七氏は1869年(明治2年)4月に、亜炭層の露出部分を発見し採掘し、明治8年10月に採掘の仮証券が交付され、官有地3000坪を借区し本格的に採掘しました。


田島元七氏

田島元七氏は古くから乗附村に住んでいた農民で、蛇場見という谷川に石油の気を含んだ水が流れているの見て石炭(亜炭)の存在を確認し採掘したと有ります。当初は坑口を3つ開けて採掘を行い、明治9年に良質な亜炭が採掘できるようになり、炭鉱から高崎まで馬車道を切り開いて運搬したと有ります。なお、資料によっては田島元七氏が採掘を行った年月が、明治7年4月と記載されており、試掘なのか実際の採掘なのかは不明です。

田島元七氏と同じく明治2年の12月には館地区の医者である佐藤友済氏も寺尾村の岩の下(岩ノ下)の民有地750坪の地で採掘を行いました。明治8年12月13日には寺尾村字舘民有地にて仮証券が交付されています。

明治9年には寺尾町館の民有地1050坪を野中源四郎氏が借り受けて亜炭の採掘を行い、採掘した亜炭は全て新町の紡績所に販売していました。明治9年5月18日には寺尾村舘字左近屋敷にて仮証券が交付されています。

明治12年には寺尾村の橋本万造氏が同村小塚で仮証券を交付され採掘を始めました。

明治13年には11月29日付で石炭借区開坑願を提出したものの、正式な許可が降りる前に採掘と販売を行い、借区権をふいにしてしまった農民もいたとの事です。

明治30年頃には中鼻高の小川義三郎氏が亜炭の採掘に着手するが、着炭せずに終わった。この地域は40年後の大正3年に谷秀助氏が着炭し、上毛炭鉱を創設し、高崎炭鉱の前身となりました。

明治33年には鉱務署(後の鉱山監督局)が設置され、高崎炭田の亜炭採掘も許可制となり鉱務署の監督を受けることになった。田島元七氏の鉱区については明治39年1月に許可がおり『田島炭鉱』となりました。

高崎炭田の鉱区の数は大正2年には10鉱区、同5年には15鉱区、同10年には20鉱区、同14年には21鉱区となっています。昭和22年に行われた臨時の事業所統計では、高崎市の高崎炭田一帯の亜炭採掘事業所数は24ヶ所で、従業員数は720名となっています。

昭和33年8月16日夜に雷雨が発生し、高崎付近で146ミリの大雨を伴い、金井沢奥の亜炭鉱のボタ山が崩壊し、出水(金井沢の出水)に伴い沢の橋が全部流出した。

高崎炭田の亜炭に関しては主に地元の農民などが採掘を行っており、農繁期には亜炭の生産量が減少していました。農民以外にも、高崎市の士族である橘正男氏と加賀憲宣氏が緑野郡山名村字赤岩山之内小字大廻りの官有林で採掘を行った記録も残っています。また、高崎か前橋の監獄の収容されていた囚人100名程度が採掘を行っていたことも有るようです。

高崎炭田の亜炭の利用

高崎炭田で採掘した亜炭は主に紡績用の燃料として利用されることが多かったようです。
一般的な亜炭の発熱量は4000~4500カロリー程度でしたが、高崎炭田の亜炭は4500カロリー以上の物もあり、亜炭としての品質は良かったようです。

高崎炭田の近くの富岡市には官営の富岡製糸工場が有り、亜炭をそこへも運んでいたようです。
当初は採掘した亜炭を馬の背に乗せ、約12キロ離れた富岡まで運んでおり、後に木道馬車(上信電鉄の前身)設立への機運も高まったとの事です。

また戦争により需要も高まり、第一次世界大戦、満州事変と共に亜炭の開発も拡大しました。
採掘量は大正初めには日産350トン程度が、昭和15年には日産2300トンとなりました。

亜炭は先に書いた富岡製糸工場、国立新町紡績所(明治11年から)など県下の紡績工場に使用されその発展を支えた他、高崎に有った高崎陸軍歩兵第十五連隊の需要を満たしたほか、戦中戦後の燃料不足の際の燃料ととして各地の住民の生活を助けました。

主な使用目的は繊維業、家庭用、重工業、化学工業、食料業、醸造業、製糸業、染色業、山元での消費、加工炭、窯業という順になっています。昭和22年12月から29年にかけての高崎市の仮市庁舎では冬季の暖房用に高崎炭田の亜炭が利用されたと記されています。

商工たかさきには事業用蒸気汽缶(ボイラー)の燃料、家庭用の風呂の燃料などにも利用され、販路も埼玉県の熊谷付近や、栃木県の足利付近まで販売を行っていたと有ります。

高崎炭田の採掘方法

当初亜炭はタヌキ掘りと呼ばれる素掘りで行われていましたが、深く掘り進むにつれて素掘りでは危険が伴う為、支柱を建てたり坑口に化粧枠を取り付ける様になり、矢木や矢板も使用するようになりました。坑内の照明はアセチレンランプなどは使用せず、ローソクや石油ランプを用いてた様です。

採掘した亜炭の搬出には当初はモッコや一輪車や手押しトロッコなどが使用され、後年になっては電動の巻き上げ機が設置されました。また坑口と積出場所が離れている場合には、簡易的な索道を設置して運んでいる炭鉱も有りました。

排水に関しては通洞坑に排水路を付けて自然排水を行う場合と、ポンプなどでくみ上げる場合の何れかでした。

通風に関しては比較的切羽(切羽:採掘部分)が比較的浅いため、通風機は使用していませんでしたが、通風扉は設置されていたとの事です。

採掘跡はズリ(採掘を行った際に出る土砂)で埋め戻し、坑内から搬出したズリは坑口付近の堆積所に積んでいた様です。

高崎炭田の炭層

高崎炭田の主要な炭層は上部板鼻層と呼ばれる地層で、高崎市内寺尾町の館地区付近から、高崎市乗附町付近を経て安中市から碓氷郡の旧細野村(現在の群馬県安中市松井田町土塩)付近まで約25キロに渡っています。上部板鼻層の中でもさらに上部・中部・下部の3層に分かれています。

上部板鼻層の下部には3つの炭層(本層・上層・高丸層)が有り、高崎地域では3つの炭層を稼行対象としており、安中地域においては礫岩が多く1つの層(本層)のみの稼行となっています。
上部板鼻層の上部には別層1番層、別層2番層、別層3番層、別層3番層下層などの炭層が有ります。上部板鼻層の中部は礫岩が多く、炭層は存在していないとの事です。

これらを含め上部板鼻層には高崎地域で11の炭層、安中地域で6の炭層があるが、それらの中でも主に稼行された炭層は本層と上層で、かつて稼行された炭層には高丸層、別層2番層、別層3番層などが有りました。

本層

高崎炭田の中で最も重要な炭層で、炭田北西部の報国炭鉱から、南東部の赤岩炭鉱まで全域にわたって発達していました。炭層の厚さは上毛炭鉱では85㎝となり、他の炭鉱においても60㎝前後の厚さがとなっています。

本層を稼行した炭鉱には安中地域で報国炭鉱・相水炭鉱、高崎地域で興亜炭鉱・高崎炭鉱・上毛炭鉱など合計13カ所の炭鉱が採掘を行いました。

上層

高崎地域において発達していた炭層で、本層に次ぐ規模となっていました。
上層は炭田東部の八幡村(現在の高崎市鼻高町付近)から、安中市板鼻付近までの約11キロにわたって分布していました。炭層の厚さは東部で約30㎝有りましたが、西の方になると薄くなっていきました。

高丸層

高崎地域の炭坑1カ所で稼行された炭層で、層の最も厚い部分は20㎝程度となっている。

別層

高丸層より上部の炭層に名付けられたそうで、安中地域では一番層、二番層、三番層が有った。
辰野炭鉱においては一番層の厚さが20cmから100cmに膨大した部分も見られた。
三番層はかつて第一炭鉱において稼行され、炭層の厚さは30㎝前後だった。

高崎炭田の炭鉱一覧

高崎炭田の炭鉱には以下の炭鉱が有りました。(主な情報は昭和27年時点)
なお、同じ炭鉱でも権者や経営者が変わった際に鉱山名を変更してることも有り、同じ鉱山が時代により様々な名称を用いていた場合も有ります。

秋間炭鉱

場所:群馬県碓氷郡秋間村
金井久恵氏により稼行されていた。
従業員数は32名。月産244トン。

昭和25年8月4日に豪雨による坑内出水のため、3番坑左右切羽が水没した。

湯沢炭鉱

場所:群馬県安中市下秋間
新野松太郎氏により稼行されていた。
従業員数は56名。月産472トン。

明治初期から湯沢炭鉱付近では芋穴を掘るようにあちこちを掘っており、露出していた炭層から亜炭を掘り進めていった記録がある。

碓氷炭鉱

場所:群馬県碓氷郡安中町中宿
金井久恵氏により稼行されていた。
従業員数48名。月産146トン。

昭和13年7月15日に安中町碓氷炭鉱坑道椿事(ちんじ)で死者2名、重軽症5名の事故が発生している(朝日年間より)

昭和25年6月13日には豪雨による坑内出水により切羽が水没している。
昭和25年8月4日には豪雨による坑内出水により右3番もしくは8番坑が水没した。

磯貝炭鉱

場所:群馬県碓氷郡安中町中宿
磯貝正雄氏により稼行されていた。
従業員数48名。月産154トン。

昭和26年12月16日に磯貝炭鉱卸本坑4番坑分岐付近において、鉱車を押し出した際にピンのさし忘れの為に鉱車逸走し、作業員2名が重傷を負う事故が発生しています。

上毛炭鉱

場所:群馬県碓氷郡岩野谷村
上毛炭鉱株式会社と小川長四郎氏により稼行されていた。
従業員数57名。月産320トン。

昭和25年8月2日に豪雨からの坑内出水により東2番坑が水没した記録が残る。

昭和29年4月6日に上毛炭鉱岩野谷坑において、運搬時に事故が発生し1名が死亡しています。

蓮井炭鉱

場所:群馬県碓氷郡岩野谷村
愛国産業株式会社により稼行されていた。
従業員数42名。月産200トン。

昭和32年3月10日に蓮井炭鉱の坑外事務所において、ストーブにより事務所が全焼する火事が発生しています。

昭和34年11月29日に斜坑口の線路を空車線に切り替える事を忘れ、炭車を押し込んだため炭車が逸走し、死者1名の事故を起こした。

高崎炭鉱

場所:群馬県碓氷郡八幡村中鼻高
高崎炭鉱株式会社により稼行されていた。
従業員数69名。月産548トン(平均500トン)

高崎炭鉱は明治37年頃に小川義三郎氏が探鉱したが着炭せず失敗し、大正3年に谷秀助氏が同一場所を採掘し成功し、大正4年に上毛炭鉱となった。後に山口壮吉氏が譲り受けて継続し、大正7年に第一銀行が高崎炭鉱株式会社を設立して継承。昭和12年に富沢幸作氏に譲り渡し、昭和18年には大日本酒の経営となった。昭和24年3月31日時点で運営会社が群馬炭鉱株式会社となっている。

昭和29年2月7日に高崎炭鉱鼻高坑において、運搬時に事故が発生し1名が死亡しています。

高崎炭鉱の坑道内

田島炭鉱

場所:群馬県碓氷郡八幡村鼻高
斉藤茂助氏により稼行されていた。
従業員数96名。月産354トン(平均600トン)

田島炭鉱は田島元七氏により発見された炭鉱で、高崎炭田の始まりでもある場所です。
大正8年には東京鉱山監督局の重要鉱山に認定され、翌9年に田島元七氏が亡くなり、長子の彌十郎氏が後を継いだ。その後所長が斉藤茂助氏となった。

昭和9年6月には従業員60名が参加するストライキが起こっています。

昭和26年3月28日に木工場において、木くずを片付け中に足を滑らせ、前方の丸のこに左手が触れ、作業員が重傷を負う事故が発生しています。

興亜炭鉱

場所:群馬県高崎市乗附町
富沢勝五郎氏と興亜炭鉱株式会社により稼行されていた。
従業員数151名。月産1932トン(平均2000トン)

興亜炭鉱は昭和14年に高崎の板倉製糸株式会社より鉱区を譲り受けた。興亜炭鉱としては長坂炭鉱と赤岩炭鉱も同一の経営として運営を行っていた。最盛期には3つの炭鉱から毎月3000トンもの亜炭を生産し、高崎炭田の4割に相当する産出をしていた。興亜炭鉱は太平洋戦争時期には、囚人も採掘作業に駆り出していた。

代表の富沢勝五郎氏は興亜炭鉱以外にも多くの炭鉱を有していたとの記録も残る。

興亜炭鉱では群馬中央バスの岩崎半之助氏と共に、採掘した亜炭からコーライト(石炭の低温乾留で作られるコークスの一種)を製造し、バスやトラックの燃料としました。コーライト作成の為の燃料研究所も作ったとの事です。また、コーライトを作る際に発生するガスを冷却してタールとし、それを精製して漁船の燃料として千葉県の銚子市の戸川漁業組合にも譲渡していたとの事です。

昭和20年1月11日の上毛新聞によると『二十度の勾配に深度五百メートルの坑口が2箇所あり、内部には10本の坑道がめぐられているが、そのうち4本しか稼行していない』との記載が有ります。

昭和28年5月8日に坑道外の選炭場において、作業中に誤ってクラッシャーに足が巻き込まれ、従業員が死亡する事故が発生しています。

上記と同じく昭和28年9月20日に興亜炭鉱第二坑において落盤事故が発生し、採炭作業の為に切羽に入った作業員に浮石が落下して死亡する事故が発生しています。

昭和33年1月3日に興亜炭鉱第一坑の第一斜坑において、車両の巻揚中に2両目の連結チェーンが切断して車両が逸走し、棹取夫(炭車を操作する作業員)と運搬夫が巻き込まれ、1名が死亡、2名が重傷、1名が軽傷を負う事故が発生しています。

昭和35年3月30日には興亜第二坑の斜坑片3片ポンプ座入り口付近で、動力電線に掛けたカンテラを取ろうとした従業員が感電し死亡する事故が発生しています。

興亜炭鉱の坑口

興亜炭鉱の坑道内


興亜事務所の廃屋


興亜炭鉱の坑道(片岡町のあゆみより)

長坂炭鉱(長坂坑)

場所:群馬県高崎市寺尾
従業員数56名。月産560トン。

昭和31年7月8日には興亜炭鉱の長坂坑付近で地滑りが発生し、社宅が押しつぶされ、長坂坑の運搬道路が破壊された他、付近の沢が崩れた土によりせき止められ、坑道内に水が流入する危機に襲われました。

昭和33年8月17日に長坂本坑において、豪雨による水が坑道に流れ込み全坑道が水没する被害に見舞われました。

赤岩炭鉱(赤岩坑・興亜炭鉱赤岩鉱業所)

場所:群馬県高崎市寺尾
従業員数56名。月産560トン。

興亜炭鉱株式会社赤岩砿業所として昭和14年2月に採炭を開始した。当初は水平坑道で採掘を行っていた。当初は月産30トン。昭和18年には凝灰岩中に斜坑を掘って掘進した。
最盛期には月産700トン。従業員は60人、30戸の団地を形成した。団地は金井沢の谷間に有ったとの事。昭和29年5月に廃坑となった。

昭和26年8月22日に赤岩坑の4片巻立において、垂れ下がっていた電線を直そうとした作業員がそれに触れてしまい感電死する事故が発生しています。

蛇場見炭鉱

場所:片岡郡乗附村蛇場見
田島元七氏により採掘された炭鉱で、高崎炭田で最も古い炭鉱。
当初は3つの坑口が有ったとの事。

蛇場見炭鉱の坑口(ほぼ埋まりかけている)

城山炭鉱

場所:群馬県高崎市乗附
日本燃化工業株式会社と山腰直一氏により稼行されていた。
従業員数40名。月産128トン。

昭和18年に興亜炭鉱株式会社の所有鉱区の一部を租鉱して昭和20年に着手した炭鉱。

太平炭鉱

場所:群馬県高崎市乗附
従業員数57名。月産208トン。

昭和7年に松井善次郎氏によって開発され、昭和17年まで継続。同年に高崎市般渡証券株式会社に譲渡。昭和20年終戦と同時に城山炭鉱の経営者である日本燃化工業株式会社が譲り受けた。

実冠炭鉱

場所:群馬県高崎市乗附
松井善次郎氏により稼行されていた。
従業員数32名。月産38トン。

松井炭鉱

場所:群馬県高崎市乗附

松井炭鉱の坑口(ほぼ埋まりかけている)

松井炭鉱の水没した坑道

松井炭鉱の様子(高崎の産業と経済の歴史)より

松井炭鉱の様子(商工たかさきより)

(群馬産業遺産の諸相より)

田村炭鉱

場所:群馬県高崎市乗附
田村今朝吉氏により稼行されていた。
従業員数12名。月産14トン。

金井炭鉱

場所:群馬県高崎市寺尾町
金井炭鉱株式会社と金井梅次郎氏により稼行されていた。昭和39年に閉山となりました。
当時、館地区に県立病院があり、その前に金井炭鉱のボタ山が有ったそうです。

昭和13年、日中興業株式会社によって開発され、翌年に群馬亜炭興行株式会社を設立。総和21年暮れに金井炭鉱株式会社を設立しました。

金井炭鉱の全盛期には従業員が100名近くおり、採炭夫16~17名、運搬人8~10名、坑外(岡番)4~5名、炭婦10名、ポンプ係2名、修理係3名、その他運転手や事務員が若干名所属していたとの記録が有ります。

昭和22年9月15日にはカスリーン台風の大雨のため、金井炭鉱を山津波が襲いました。その際に金井炭鉱から社長宅に救援の電話が来たが繋がらず、交換手が豪雨の中社長宅に向かい、その報を告げた事で金井炭鉱の従業員数十名の命が救われました。

昭和25年6月15日に降雨のための坑内出水により本坑坑道が水没した。

昭和29年8月13日にも何らかの事故か事件で青木博道氏が犠牲になった事が、二十周年碑から伺えます。

昭和32年1月13日に金井炭鉱の新坑の左7片採炭切羽において、採炭中に天盤が崩落し作業員1名が死亡する事故が発生しています。二十周年碑から事故で亡くなったのは内山竹雄氏と見られます。

金井炭鉱に残る開発二十周年記念碑

上記、金井炭鉱開発20周年記念碑には以下のように文字が記されています。

当鉱山は昭和拾四年四月一日に開坑されてより茲(ここ)に弐拾周年を迎え社運愈々隆盛の途をたどりつつあることは、是偏に従業員諸君の努力と関係者各位のご協力の賜と深く感謝する物である。殊に昭和29年8月13日青木博道氏、昭和31年1月13日内山竹雄氏職に身を殉じた諸氏の英霊に対し其の功績を讃えると共に衷心の意を捧げるものである。
金井炭鉱株式会社社長・金井梅次郎書


埋没している金井炭鉱の坑口

金井炭鉱の斜坑

金井炭鉱のチラシ

稼行時の金井炭鉱の様子

金井炭鉱の通風口


金井炭鉱の坑口(群馬産業遺産の諸相より)

青木炭鉱

場所:群馬県高崎市寺尾町
青木炭鉱有限会社と木元吉氏により稼行されていた。
従業員数37名。月産100トン。

昭和18年田村某氏によって着手されたが半年で休山。同年青木繊維社長によって再開し、昭和25年に木元吉氏が譲り受けた。

昭和26年12月19日に青木炭鉱2番坑右片詰において、掘進作業中に上炭が落下し、作業員1名が重傷を負う事故が発生しています。この事故では掘進中に無支柱で2メートル近く掘り進んだことで落盤が発生しました。

昭和炭鉱

場所:群馬県高崎市寺尾町
昭和炭鉱株式会社と荻原林一氏により稼行されていた。
従業員数60名。月産193トン。

開発された時代は不明。昭和15年に高崎の輸沢某氏が経営に当たり、翌年川崎五十鈴株式会社が譲り受け、昭和20年に昭和炭鉱株式会社を設立した。

辰野炭坑

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

第一炭鉱(高崎第一炭鉱)

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

板鼻炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

高丸炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

高陽炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

宝冠炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

羽切炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

東亜炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

館炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

群馬炭鉱

昭和32年時点で富沢邦太郎氏により稼行されていた。
昭和29年までには閉山もしくは休山していた

岩井炭鉱

岩野谷村と秋間村に鉱区を持っており、岩野谷村の鉱区の方が規模が大きかった。
岩野谷村では大正7年には亜炭4175.13トンを採掘し、鉱夫が93名いた記録が有る。
昭和29年までには閉山もしくは休山していた

道井炭鉱

詳細は不明。昭和29年までには閉山もしくは休山していた

東炭鉱

詳細は不明。

志水炭鉱

安中市誌に名称が出てくる炭鉱。
当時の安中町にあり、鉱区は116,500坪有ったとの事。
大正4年には120350斤(約72.21トン)、大正5年には100300斤(約60.18トン)の亜炭を採掘。
大正4年には鉱夫5名、大正5年には鉱夫9名が従事していた。

報国炭鉱

昭和32年8月21日に報国炭鉱の報国坑6番坑道において、隣接していた旧坑より漏水し24時間水没する事故が発生しています。負傷者はいなかったとの事。

相水炭鉱

詳細は不明だが、安中市の下秋間地区に相水や相水谷津という地名、相水川などが流れているので、この付近に位置した炭鉱と思われる。

荒久炭鉱

昭和24年3月31日付の鉱区一覧に記載の有る炭鉱。
高崎市に位置し亜炭を採掘していた。
日本燃化工業株式会社が権者となっている。

上州炭鉱

昭和24年3月31日付の鉱区一覧に記載の有る炭鉱。
高崎市の少林山付近に位置し亜炭を採掘していた。
斉藤瀧次郎氏が権者となっている。昭和35年(1960年)廃坑との事。

この付近では古くから大規模な地滑りが発生しており、上州炭鉱斜坑の坑口から13.3メートルの地点に、凝灰角礫岩と泥岩の境があり、後の調査で地滑り面を観察できたとの事。

榮炭鉱

昭和24年3月31日付の鉱区一覧に記載の有る炭鉱。
高崎市に位置し亜炭を採掘していた。
興国人絹パルプ株式会社が権者となっていた。

共栄炭鉱

共栄炭鉱もしくは共栄なる法人が高崎で亜炭を採掘していた。

日の本炭鉱

日の本炭鉱もしくは日の本なる法人が高崎で亜炭を採掘していた。

立石炭鉱

立石炭鉱もしくは立石なる法人が高崎で亜炭を採掘していた。

 

参考資料:『多野藤岡地方誌 各説編』『群馬県地下資源調査報告書 第2号』『日本鉱産誌 B 5-a』『日本地方鉱床誌 関東地方』『群馬県史 通史編 8 (近代現代 2 産業・経済)』『高崎の産業と経済の歴史 [1]』『上毛裏かえ史 (ぐんま歴史新書)』『高崎郷土産業史』『安中市誌』『鉱山保安年報』『石炭労働年鑑』『高崎 市役所小史 第1部』『車の生涯』『高崎市教育史』『高崎市史第2巻』『躍進群馬県誌』『関東電信電話百年史 上』『東京通商産業局管内鑛區一覽』『地すべり研究 28』『河川 (196)』『新編高崎市史』『高崎市史』『群馬・産業遺産の諸相』『寺尾町舘の民俗』『片岡の歴史』『群馬のおいたちをたずねて』『片岡の歩み 第1集』『高崎の散歩道』『上州路』『商工たかさき』『鼻高町の歴史と民俗』『群馬歴史散歩』『産業遺跡を訪ねる』『高崎百年』『観音山丘陵の歴史探索』

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