吉乃鉱山は秋田県平鹿郡増田町(当時)に位置した、黒鉱鉱床鉱山です。
主な鉱物は、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱。
付近に有った増田鉱山と大倉鉱山は、吉乃鉱山の支山扱いの鉱山で有った。
吉乃鉱山の概要
吉乃鉱山までの道のりは平たんで、バスが通っており、奥羽本線の十文字駅からバスで約30分の距離で有った。交通の便は便利との事。
鉱山の鉱床の上部は重晶石帯となっており、下部には閃亜鉛鉱と方鉛鉱を主とした黒鉱帯が有り、その下部は黄銅鉱・黄鉄鉱・少量の閃亜鉛鉱・方鉛鉱・石英の網状脈の集合体となっていた。最下部は黄鉄鉱を主とする鉱脈となった。
熊ノ沢鉱床は東西最大で100メートル、南北は150メートル、深さは270メートルの円筒状の鉱体で有った。昭和37年までに坑道は約40,000メートル掘られた。
鉱石の層産出量は昭和37年までに、銅が33,600トン、粗鉱が4,200,000トンとなっていた。
吉乃鉱山の鉱床
吉乃鉱山の鉱床は宇土沢鉱床と熊ノ沢鉱床の2つが有った。
熊ノ沢鉱床
吉乃鉱山の主鉱床。
黒鉱部分は調査当時に採掘済みで、露天掘り跡と陥没跡が残るとの事。後の稼行時は坑道掘りを行っていた。
昭和27年の資料の時点で、熊ノ沢鉱床の坑道は上下30メートル。間隔を開け上部より第10坑道まで開いたが、第1坑道と第2坑道は採掘が住み埋没。第10坑道は水没していたとの事。
採掘は機械を用いて、ケービング採掘法とシュリンケージ採掘法を用いていた。
採掘した鉱石は第4坑道以上の物は坑井により第5坑道に集めて、中央立坑から第3坑道まで押し上げ、手押しトロッコにて選鉱場まで送っていた。第6坑道以下の鉱石は第一立坑にて第6坑道まで巻き上げ、そこから中央立坑から第3坑道まで上げられた。
大正6年から7年頃には軍需物資としての銅の需要も高まり、鉱産量、生産額共に最高に達し、本邦の重要鉱山にも指定された。この頃吉乃鉱山は全盛時代となり、鉱山周辺には鉱山労務者やその家族などが3000人ほど集まったという。鉱山には真人水力発電所や、劇場なども有った。
宇土沢鉱床
熊ノ沢鉱床の南東600メートルに位置し、昭和27年(1952年)の時点では採掘を中止していた。
参考資料によると調査当時黒鉱部分は採掘済みであるが、かつては金、銀を伴う黒鉱が存在していたとされる。
吉乃鉱山の歴史
吉乃鉱山の発見時代は不明だが、享保5年(1720年)に「享保郡邑記」に「大沢に鉛鍎あり」との記録が有るとの事。
元文2年(1737年)明が沢の金堀沢古鉱山が開発された。
文化2年(1805年)熊の沢に位置する部分に大沢坑を掘り、大沢鉛山と称した。
弘化元年(1844年)院内の竹内二郎氏(資料によっては竹二郎氏の記載)が着手し、銀を500匁(1875g)を採取。
安政2年(1855年)院内の山村喜八氏、伊勢八郎兵衛氏、長八氏、房吉氏、平鹿の庄右衛門氏、増田の佐藤清十郎氏等により、水上沢で鉛鉱を採掘し、銀を製錬し銀5貫160匁を得た。
安政6年(1859年)水上沢で鉛鉱を採掘した。
明治10年(1877年)村民の佐藤己之松氏(佐藤巳之松氏)他数名が水上沢で採掘に着手した。
明治19年(1886年)吉野鉱山称して、宇土沢、熊ノ沢方面を採掘した。その後池田孫一氏、高橋良助氏が採掘を行った。
明治27~28年頃(1894~95)池田孫一氏が核を再開し、高橋良助氏が継承。その後磯部正勝氏が熊の沢と字土が沢で鉱床を発見。熊の沢伊一番坑で黒鉱を採掘した。
明治37年・38年(1904年・1905年)佐藤与吉氏(佐藤幸吉氏?)が宇土沢の鉱区を増田鉱山と称して稼行した。
明治40年(1907年)武田恭作氏が着手した。武田恭作氏は藤田伝三郎氏の兄弟である藤田鹿太郎氏の娘婿で藤田組から分離独立し複数の鉱山を経営していた。
明治44年(1911年)椿鉱山の支山として稼行し、黒鉱と重土質金銀鉱を採掘した。
大正3年(1914年)9月に休山した。
大正3年(1914年)11月に宇土沢露天掘りから重晶石1000トンを出鉱した。
大正4年(1915年)4月に熊ノ沢鉱床を発見する。
大正4年(1915年)11月に大日本鉱業株式会社を設立。
大正6年(1917年)吉乃鉱業所と十文字駅間に鉄索が開通した。
昭和9年(1934年)吉乃鉱業所のダムが決壊し、宅地9700坪、水田23ha、畑2.5haが泥水に覆われた。
昭和17年(1942年)増田鉱山(日本鉱業株式会社)を大日本鉱業株式会社が買収。
昭和28年(1953年)増田鉱山が休山となる。
昭和37年(1955年)吉乃鉱山の採掘が中止となる。
昭和52年(1977年)大日本鉱業株式会社が解散する
参考資料『日本の鉱床総覧』『秋田大学鉱山学部地下資源開発研究所報告 (7)』『秋田県鉱山誌』

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