国富鉱山は北海道岩内郡共和村大字小沢村字シマツケナイ(当時)に有った、黒鉱鉱山です。
三井鉱山株式会社、北海道鉱山株式会社、田中鉱業株式会社、住友金属鉱山株式会社によって稼行されてました。
鉱山の概要
国富鉱山は古くは黒鉱鉱山として稼行されていましたが、後に銅の精錬などを行うようになりました。
黒鉱鉱床は塊状鉱体を主として、網状、鉱染状、脈状の形態をとる鉱床となっていました。
鉱石は閃亜鉛鉱、方鉛鉱、重晶石、黄鉄鉱、黄銅鉱、金、銀、石膏などが見られています。
主な鉱床にはセトセ(瀬戸瀬)鉱床、西小沢鉱床(第一鉱床)、釜場鉱床(第二鉱床)、柏谷鉱床(第三鉱床)、富田鉱床などの鉱床が有ります。
また、シマツケナイ川中流の左岸産地では、ボーリング調査で第四鉱床、第五鉱床、第六鉱床が確認されています。
西小沢鉱床(第一鉱床)は、東西500メートルの範囲に約10カ所の鉱体からなり、シマツケナイ沢の右岸と、その西方300メートルの辰五郎沢付近の2グループに分かれています。
釜場鉱床(第二鉱床)は、石英安山岩と頁岩砂岩層の間の粘土脈層にあり、直径10センチから1メートル程度の団塊状の鉱床となっていた。
柏谷鉱床(第三鉱床)は、国富鉱山で最大の鉱床で、長さ約250メートル、幅20~60メートル、厚さは通常1~3メートルであったが、場所によっては10~25メートルにも及ぶ層状鉱床となっていた。
セトセ鉱床は、頁岩砂岩層と石英安山岩の中に胚胎し、長さ50メートル、幅6~10メートル、厚さ15メートルとなっていた。
富田鉱床は、レンズ状の鉱体で、直径50メートル、短径15~20メートル、深さ50メートルとなっていた。
第五鉱床は、石英安山岩と緑色凝灰岩中に胚胎し、主に粘土帯中の鉱染ないし網状の不規則な鉱体となっていた。鉱石には閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱を主とした黒鉱と珪鉱となったおり、下部には石膏も見られた。
鉱山の歴史
明治23年(1890年)セトセ(瀬戸瀬)鉱床の露頭が発見され三井合名会社(三井鉱山株式会社)により稼行されるが、程なく採掘は中止。
明治31年(1891年)北海道鉱山株式会社の手に渡り、セトセ棒坑鉱床を開発したが品位が悪く中止。
明治39年(1906年)田中鉱業株式会社(田中商店株式会社)の手に渡り、西小沢鉱床を発見。
明治40年(1907年)柏谷鉱床を発見。
明治41年(1908年)乾式製錬所を建設。
昭和6年(1931年)3月に鉱業会の不況や鉱量の不足、および煙害などにより操業中止。
昭和10年(1935年)11月に住友本社により買収される。
昭和11年(1936年)精錬所の稼行を再開する。
昭和15年(1940年)浮遊選鉱場を建設する。
昭和18年(1943年)焼結炉および溶鉱炉を増設する。
昭和19年(1944年)電錬工場建設に着手するが政府の命により中止。
昭和27年(1952年)鉛精錬所を建設。
昭和32年(1957年)鉛精錬所増設。トラックミル建設。
参考『日本の鉱床総覧』『特定鉱床開発促進調査報告 昭和43年度』
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