高越鉱山(徳島県)

高越鉱山(こおつこうざん)は徳島県麻植郡山川町(麻植郡三山村字大内)に位置した銅鉱山です。

高越鉱山の概要

高越鉱山は藩政時代から採掘を行われていた記録が有ります。
明治初年に奥野井谷川流域で、優秀な鉱床の露頭が発見され、明治29年頃から本格的に採掘が行われました。

鉱山としては当初は手掘りにて金、銀、黄銅鉱、斑銅鉱、硫化鉄鉱を採掘し、銅に関しては山本で製錬し銅の生産を行った。明治年間の生産粗鉱量は約5000t、銅品位3.4%。

大正7年には月産4400t、銅日には2.3%となった。
大正年間の採掘量は338,000t、銅の品位は2.17%。

昭和元年から昭和27年9月までの生産量は978,000tで、銅の品位は1.56%。

採掘された鉱石は湯立駅まで索道で運ばれ、貨車に運ばれて輸送された。
硫化鉱は硫酸アンモニウム製造の為に、愛媛県新居浜の日清化学肥料会社や兵庫県の多木肥料工場に運ばれた。銅鉱石は大分県佐賀関製錬所に運ばれた。

高越鉱山の鉱床

高越鉱山の鉱床は富鉱部が南北に約1800mの長さが有り、掘削可能な部分の長さは最大300m、最小で50m程度となっています。
鉱床の厚さは褶曲による折り畳み部分で3~5mとなるが、通常部分は0.5~1.0mとなっている。

鉱床の含まれる金属鉱物は黄鉄鉱、黄銅鉱、斑銅鉱からなり、鉱床の先端部は磁鉄鉱や鏡鉄鉱など。鉱脈付近には緑泥石、藍閃石、石英等が見られる。

高越鉱山の歴史

古くは藩政時代に採掘が行われたことも有るようで、鉱山としての発見年代は明治初年となっています。
明治27年(1894年)頃から但友鉱山の名称で、高越鉱山の本坑部分を手掘りにて小規模に採掘を行い、山本で製錬し銅の生産を行った。
明治28年(1895年)松島顯三氏、武智氏など4名により経営が行われました。
明治38年(1905年)この頃まで10年ほど休山をしていたが、川眞田氏の所有となり稼行しましたが、後に休山となりました。
大正5年(1916年)高田商会の経営となり、各施設を整備して積極的に開発を行った。この頃に鉱山名が『高越鉱山』となりました。
大正8年(1919年)高田商会から高田鉱業へ経営が移り、さらに生産を高めた。
大正14年(1925年)共立鉱業の経営となり、坑内外の機械化等施設を拡大した。
昭和7年(1932年)鉱山が日本鉱業の手に移り、さらに採掘と探鉱を行ったが、銅の品位が1%前後に低下した。
昭和25年(1950年)石原産業から旧久宗、川田鉱山を含む、久宗、大内、川田山の隣接鉱区を吸収合併した。
昭和27年(1952年)鉱区の生産量が上がらず9月に休山。
昭和27年(1952年)10月に高越鉱業株式会社の経営となった。
昭和28年(1953年)低品位鉱の処理の為、2000t/月の能力を持つ浮選鉱場を建設した。
昭和36年(1961年)硫化鉱を目的とした、1300t/月の能力を持つ素硫化浮選工場を建設した。
昭和42年(1967年)3月に高越鉱業株式会社が所有していた14鉱区の鉱業権と周辺の山林と共に合同資源産業株式会社が買収し、高越鉱山として新会社を設立させた。
昭和44年(1969年)3月に買収した投資額を回収することが出来ず休山となる。

参考資料『日本の鉱床総覧』『麻植のすがた』『麻植郡誌』『東京工業会誌 34(3)』『四国鉱山誌』『合同資源産業株式会社社史』『徳島の自然地質 1 (徳島市民双書 ; 13)』

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