久根鉱山(静岡県)

静岡県の鉱山

久根鉱山は静岡県磐田郡佐久間町に位置した鉱山です。
主に銅や黄鉄鉱を採掘していました。

久根鉱山の概要

久根鉱山には本山鉱床と5km程南に位置する名合鉱床(名合支山)、および天白鉱床、大庭鉱床が有りました。
一時は日本一の銅鉱山となり、坑夫も1000人を超える規模を誇っていたことも有ります。

本山鉱床

本山鉱床の鉱床は不規則なレンズ状の集合となっていました。
主な鉱体には奥𨫤、栄𨫤などが有りました。
奥𨫤は延長550~250m、傾斜延長700m、厚さ2~30m。
栄𨫤は延長20~50m、傾斜延長400m、厚さ0.5~5.0m。
海抜360m付近には露頭部が有りました。

鉱床の特徴として上部には富鉱部が有り、下部に行くにしたがって鉱体が分岐していました。鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、磁鉄鉱など。石英、緑泥石、絹雲母なども見られた。

久根鉱山は昭和12年(1937年)に久根鉱山から~中部天竜間の索道が完成するまでの間、採掘した鉱石や物資は天竜川を川舟で運搬していました。

 

名合鉱床


名合鉱床の鉱体には恵比寿𨫤、カンバキ𨫤などが有りました。
恵比寿𨫤は延長300~600m、傾斜延長1100m、厚さ2~8m。
カンバキ𨫤は延長300~400m、傾斜延長900m、厚さ0.6~2m。
露頭が海抜150~320mにかけて、断続して700mに渡り見られました。

鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、磁鉄鉱、閃亜鉛鉱など。石英、緑泥石、緑簾石、絹雲母なども見られた。

名合鉱床は久根鉱山の名合支山としても稼行され、第二次世界大戦後の昭和28年(1953年)には、出鉱量は久根鉱山本山の2倍の7万トンにもなりました。

名合鉱床は天竜川河畔に通洞坑が開かれ、採掘された鉱石は通洞坑すぐ前の名合選鉱場にて、クラッシャーにて破砕され、トラックにて久根鉱山の本山に運ばれました。昭和19年(1944年)に名合索道が作られたことにより、鉱石の運搬はトラックから索道に切り替えられました。

また昭和29年(1957年)には上向充填採掘法を用いた事で、浮遊選鉱の廃泥を使用する為に、本山と名合の間約6kmの廃泥輸送用パイプも敷設されました。

天白鉱床

鉱床は延長約200m、傾斜延長500m、厚さ2m。
海抜630~730m付近に、磁鉄鉱を含む大露頭が有る。露頭の延長は250m、厚さは最大で10m。
露頭の620mより上部には旧坑がある。

大正時代の旧坑の総延長は800mとなっている。

大庭鉱床

鉱床は笹の葉状の形をしている。
鉱床の延長は50m、傾斜延長は200m、厚さ1.0m。
露頭が海抜360m付近に位置しており、延長は50m。

鉱床の鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、斑銅鉱、四面銅鉱などによる細い脈の集合体となっている。方解石、石英、絹雲母、緑泥石なども見られる。

久根鉱山の歴史

本山鉱床の歴史

享保16年(1713年)備中の藤井五郎兵衛氏が開発し、明治初年まで片和瀬鉱山と呼ばれていた。
明治11年(1878年)名古屋の佐藤新吾氏が佐久間銅山として経営するもしばらくして休山となる。荒木英次郎氏の手に鉱山が渡るまでに愛知県知多郡の榊原源吉氏が稼行をしたが、すぐに休山となる。
明治23年(1890年)荒木英次郎氏が上7坑などの開発を行う。当時は坑夫が20名。
明治25年(1892年)鉱山が大阪の石田佐七氏と和歌山の原秀次郎氏の所有となる。当時は原久根鉱山と称していた。
明治26年(1893年)製錬による影響で付近の農家で鉱毒問題が発生する。この頃に実業家の金原明善氏が鉱山を訪れる。
明治30年(1897年)原秀次郎氏が石田佐七氏の持ち分を譲り受け、原秀次郎氏の単独経営となる。
明治31年(1898年)鉱毒問題に伴って知事および地元民が農商務省に陳述を行い、製錬と採掘の中止命令が出て稼行が中止となる。
鉱毒問題により、鉱山の操業が難しいと感じ取った原秀次郎氏は、鉱山を皇室に献上しようと鉱山局長に申し出たがそのような事が出来なかった。そのため、鉱物学者で後に議員にもなった 和田維四郎氏の仲介で古河市兵衛氏へ鉱山の話が持ち込まれた。
明治33年(1900年)古河市兵衛氏が鉱山を30万円で買収し、古河により鉱山が操業される。当時の坑夫は40~50名。古河市兵衛氏は足尾銅山の鉱毒問題の二の舞を踏まないため、久根鉱山には精錬所を作らず、秋田の東雲製錬所や王子の関東酸素会社の硫酸製造工業や足尾精錬所などに送っていた。
古河市兵衛氏は和田維四郎氏の鉱山報告書を見ると即座に買山を決断し、周囲の反対を押し切るために数名の鉱山技師を伴い明治32年2月に現地調査に向かった。調査後の古河における重役会議で開口一番「皆は反対だろうが、あの鉱山は是非私に買わせてくれ。30万円を私の道楽で捨てたと思ってくれ」と話したと記録が残る。
明治35年(1902年)通洞坑を開削する。奥の鉱脈に到達し、年間粗鉱量は2万t(銅品位6.3%)となる。
明治38年(1905年)古河鉱業会社の運営となる。
明治44年(1911年)古河合名会社と改称。削岩機を用いての採掘が行われ年間粗鉱量は8万t(銅品位4%)となる。
大正2年(1913年)大滝発電所が新設される。
大正3年(1914年)豊根発電所が新設される。
大正4年(1915年)西向竪坑が完成する。
大正5年(1916年)年粗鉱量は15万t(銅品位3.8%)となる。
大正7年(1918年)アンドリュース社のダイヤモンド試錐機を用いて、試錐探鉱を行う。
大正8年(1919年)中山式電気ドリルを使用する。
大正10年(1921年)年間粗鉱量が5万7千トン(銅品位4%)
大正14年(1925年)上7坑に100馬力扇風機を設置。坑内でカーリット爆薬を使用した採掘を行う。浮遊選鉱を開始する。
昭和初期(年代不明)スウェーデン人のシュルンベルグ氏を招いて電気探鉱を実施する。
昭和12年(1937年)久根~中部天竜間の索道が完成する。今まで行っていた川船での鉱石運搬を廃止する。
昭和16年(1941年)大東亜𨯁(栄𨯁)を発見する。
昭和45年(1970年)閉山する

名合鉱床の歴史

名合鉱床の発見年代は不明。
大正2年(1913年)久根鉱山の支山となり地表近くを稼行しながら探鉱を行う。
大正8年(1937年)探鉱が終了し閉山となる。
昭和12年(1937年)探鉱を再開する。
昭和14年(1939年)出鉱を開始する。(ひと月約454t)
昭和15年(1940年)ひと月に1000tを出鉱。
昭和19年(1944年)カンバキ𨫤上二坑口を開削し、出鉱量がひと月に1500tとなる。
昭和20年(1945年)名合索道が運転を開始する。
昭和21年(1946年)320m竪坑が下2坑まで完成する。
昭和25年(1950年)320m竪坑が下4坑まで完成するが下4坑でメタンガスが発生し、カンテラの火が引火した。月産2000tとなる。
昭和27年(1952年)下6坑で再びガスが湧出した。
昭和26年(1951年)320m竪坑が下6坑まで完成する。
昭和30年(1955年)月産粗鉱量が8000tとなる。
昭和32年(1957年)750m竪坑が下8坑に到達する。
昭和35年(1960年)月産粗鉱量が10000tとなる。
昭和45年(1970年)閉山する

天白鉱床の歴史

発見された時代は不明。
明治中期に探鉱を行ったとされる。
明治44年~大正2年(1911年~1913年)手掘りによる坑道探索が行われる。
大正7年~大正8年(1918年~1919年)手掘りによる坑道探索が行われる。
昭和25年(1950年)電気探査、磁力探査、化学探査、地質調査による総合調査が東京大学により行われる。
昭和31年~昭和32年(1956年~1957年)地表より試錐探査を行う。
昭和33年~昭和34年(1958年~1959年)露頭付近坑内で手掘探査を行う。(坑道延長235m)
昭和35年(1960年)名合上5坑水準で天白鉱床下部に向けて坑道探鉱を行う。

大庭鉱床の歴史

発見された時代は不明。
大正8年(1919年)この頃まで久原鉱業で開発したが廃山となる。
昭和15年(1940年)数名の人の手を経た後、古河鉱業の所有となる。
昭和27年(1952年)地表調査と坑道探鉱を開始する。
昭和29年(1954年)出鉱開始する。抜き掘りで200t。
昭和31年(1956年)索道建設の上、2号坑を中心に本格的な出鉱を行う。天狗坑方面の試錐探査を行う。
昭和33年(1958年)2号坑の採掘を終了(約1万t出鉱)。天狗坑より探鉱坑道の掘進を開始する。
昭和35年(1960年)天狗坑と2号坑を貫通し、残鉱を採掘後休山となる。

 

参考資料『日本の鉱床総覧』『佐久間町史 下巻』『静岡の昭和史 上』『古河従純君伝』『青山家談叢 : 鉱山技術を以て藩に仕えた武士の系譜』『水系に連なる : 母なる天竜川・豊川・矢作川周辺 三遠信の航空写真集』『早稲田大学鉱山学研究報告 2(53)』『古河鉱業 創業100年史』『産業遺産研究』

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