山陽鉱山は熊本県球磨郡相良村四浦(四浦村小川内吉市)に位置しており、ラサ工業株式会社により稼行されていました。
山陽鉱山の概要
山陽鉱山は肥薩線人吉駅から約20kmで鉱山最寄りの野原集落に到達し、そこから徒歩6kmにて鉱山事務所にたどり着く。鉱山事務所から鉱山へは徒歩500m。
採掘した鉱石は索道で鉱山事務所まででおろし、そこからトラックにて県道に出て人吉駅まで運び、貨車により出荷していた。

鉱山は明治の末期に四浦村の医師である小山氏により開発が始まったとされる。
大正初期には塚本氏、大河内氏、得田氏等の手に渡ったが、昭和4年に休山となる。
昭和16年7月に昭和鉱山株式会社が探鉱契約を結び、探鉱を実施した結果将来有望であることが判明したため鉱業権を買収して、本格的に本𨫤の𨫤押し、中段と本坑切上りの掘削に着手した。
しかし、昭和20年には鉱石の輸送が困難となり自然休山となった。
昭和24年5月に東邦鉱業株式会社が鉱業権を譲り受け、同年7月から本坑の取明に着手した。
昭和27年2月にはラサ工業株式会社が鉱業権を買収し、コンプレッサ2台を整備して操業を行う。
同時に電気探鉱を行い鉱量の獲得を行ったが、道路の整備が不完全だったため出鉱が出来ず、昭和30年にラサ工業の傍系企業である、東邦鉱山株式会社に譲渡した。
東邦鉱山株式会社は山陽鉱山を取得したものの、しばらくは見立鉱山を稼行するため、山陽鉱山の操業を休止した。後の昭和31年5月に操業を開始し探鉱を実施。
しかし、見立鉱山に主力を注ぐため、昭和32年9月に再度休山にする。
採掘した鉱石は200tを佐賀関製錬所に出荷していた。
また、採掘した鉱石は坑道外に200tほど貯鉱していたようだが、流失逸散している。
山陽鉱山の鉱床
山陽鉱山の鉱床は輝緑岩中に胚胎する緻密な含銅硫化鉄鉱床。
鉱床の形状はレンズ状で、脈幅は最大で7m。第1富鉱体、第2富鉱体、第3富鉱体の3つの富鉱体が有った。
鉱脈に含まれる金属鉱物には黄銅鉱、黄鉄鉱。
脈石は緑泥石、方解石、石英など。


採掘区画には本坑、下30m坑道、湯の口露頭があった。
本坑上部には低品位な縞状硫化鉱の露頭が有り、本坑は露頭部より𨫤押しした、採掘区画となる。
本坑は坑口から坑道末端まで約300mあり、第1富鉱体、第2富鉱体、第3富鉱体の鉱体が見られた。
鉱床は膨縮に富、銅品位は平均的に2~3%。
下30m坑道は本坑富鉱体の下部を探鉱する目的で、開削された坑道となっている。
湯の口露頭は緑色岩中に胚胎した鉱脈状の露頭で、銅品位は約10%。
脈の幅は5~6cmとなっている。
山陽鉱山の歴史
山陽鉱山の発見年代は不明。
1912年~1929年(明治末年~昭和4年)この間、数人(医師の小山氏、塚本氏、大河内氏、得田氏等)によって探鉱が行われる。
1929年(昭和4年)銅価格変動により休山。
1941年~1945年(昭和16年~20年)昭和鉱業株式会社が探鉱ならびに掘削準備を行う。
1945年(昭和20年)8月に太平洋戦争による輸送困難にて休山となる。
1949年(昭和24年)5月に東邦鉱業株式会社が鉱山を取得し、本坑の取明けおよび道路整理を行う。
1952年(昭和27年)2月にラサ工業が鉱山を譲り受け、電探と試錐および坑道探鉱を行う。
1955年(昭和30年)4月にラサ工業の傍系企業の東洋鉱山に移譲される。
1957年(昭和32年)7月に休山となる。
1959年(昭和34年)12月に合併となり、再びラサ工業の所有となるも後に休山となる。
参考資料『日本の鉱床総覧』『未利用鉄資源 第4輯』


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