釜脇鉱山は徳島県美馬郡一宇村土釜に位置した鉱山です。
徳島本線貞光駅の南方12kmに有り、主に銅と硫化鉱を採掘していました。
貞光川の渓谷に出来た釜状の甌穴である『土釜』の下流に位置していたことから、当初は『土釜鉱山』の名称でした。

釜脇鉱山の概要

釜脇鉱山の鉱床は本坑鉱床と旧採掘鉱床の2カ所が有るが、旧鉱床は川とほぼ同じ高さにあるため、水没および崩壊している。
本坑鉱床は走向長20m、傾斜延長約130m、平均厚さ0.3m。
明治43年の資料によると坑道は県道下の絶壁に開口しており、川の水面より数十尺の高さにある。出水の際は川の水が坑口に達す。当時の調査時には出水の為、坑内は水没していたとの記載が有る。
昭和31年の千原鉱業株式会社の稼行時は、県道下の右岸に横坑が有り、深さ120m。作業員は7名居り、鉱石は岡山に送っていた。昭和32年5月に削岩機を設備したとの記録が有る。
これらに記載される県道は現在の国道438号線である。
釜脇鉱山の鉱床
鉱床の形状は平板層状の鉱床で鉱体付近に発達する断層により、寄木細工状のブロックに分断されている。
1つの鉱体の規模は20m×30m×0.3m。
開発深度は本坑の基準より、上部が20m、下部が5mとなっている。
背斜の頭部または地層の折れ目に溜まり状の富鉱部が有る。
鉱床の含まれる金属鉱物には黄鉄鉱、黄銅鉱磁硫鉄鉱。
緑色千枚岩及び黒色千枚岩の薄層を挟んで上盤側は低品位鉱で、下盤は緻密堅硬な高品位鉱となっている。
昭和36年までの坑道総延長は本坑鉱床で約500。
昭和25年から26年までの産出量は粗鉱量308t、銅の品位は3.1%、硫黄の品位は31.6%。
釜脇鉱山の歴史
明治25年(1892年)大坂の人により開発され。山本で焼鉱炉20基を設備し、山下吹により粗銅を生産した。生産した銅は大阪方面に販売した。
明治27年(1894年)野口賢蔵氏、藤本清吉氏、武田幸助氏により試掘許可願いが出される。
明治30年頃(1897年頃)入交太郎氏、山積萬助氏により採掘が行われた。
明治末期(明治37年頃)に不況により休山となる。
昭和10年(1935年)大坂の松村軍次氏により再度稼行されたが、排水が困難となり休山。
戦後に冨田貞夫氏が『釜脇鉱山』として採掘。月産20t。その後休山。
昭和25年(1950年)小野実氏により採掘が開始される。
昭和27年(1952年)本郷瑞穂氏が採掘を行う。
昭和31年(1956年)7月から千原鉱業株式会社により探鉱と採掘が行われる。
昭和33年(1958年)休山となる。(昭和35年休山の記載もある)
参考資料『日本の鉱床総覧』『新編美馬郡郷土誌』『徳島県史 第5巻』『日本の層状含銅硫化鉄鉱床総覧 (鉱山地質特別号 ; 第1号)』『地質要報 22(1)』『徳島の自然地質 1 (徳島市民双書 ; 13)』『阿波学会紀要 第57号 つるぎ町一宇地域の地質・岩石・地すべり地形』


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