矢矧鉱山(北海道)

北海道の鉱山

矢矧鉱山は北海道北見国紋別郡生田原町に位置した鉱山で、当初は金銀鉱山で後に銅鉱山となりました。
住友金属鉱山株式会社により稼行されていました。

矢矧鉱山の概要

矢矧鉱山は昭和8年に、地元の住民である山本喜八氏により露頭が発見され、坑道を掘り探鉱を行った結果、三条の平行細脈に到達した事から、翌9年に試掘許可を申請し採鉱に着手を行った。

その後、鉱山は数人の手を経て大阪府の高木文吉氏と地元の小木曽悦郎氏に権利が渡り、昭和10年に「二木鉱業上生鉱山」として本格的な経営に入った。当初は月産20トンの出鉱をしていたが、同年6月に小曽木氏が無くなり、その持ち分が東京の赤司初太郎氏に譲られ、鉱山名が「内外商会矢矧鉱山」として共同経営が行われた。
昭和14年には月産70トンの出鉱となった。

昭和17年には高木文吉氏が権利を赤司氏に譲り、鉱山名が「東邦採鉱株式会社矢矧鉱山」と改められた。

昭和18年の金山整備令からは事業を縮小して、隣接する銅鉱床で発見した銅、鉛、亜鉛の採掘を行う事として銅鉱山として稼行が行われた。しかし、戦後の資金難から昭和21年9月30日で休山となる。

昭和24年8月には住友系列の別子鉱業株式会社が鉱山の権利を取得し、昭和26年5月に金鉱の採掘を行う。月産100トンの出鉱が有り、鉱石は国富製錬所へと送ったが、昭和28年に休山となり、翌29年に閉山した。

矢矧鉱山の鉱床

昭和41年3月までの金銀鉱床の坑道総延長は3,000m。

金銀鉱床は断層破砕帯の裂罅充填鉱脈。
銅鉱床は辰巳鉱床の上部では粘土化帯中の小レンズ状鉱体で、一般的には網状から角礫状細脈となっている。

鉱床に見られる金属鉱物には、自然金、輝銀鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、藍銅鉱、斑銅鉱、四面銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、磁硫鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱。

金属の総産出量は以下。
金:54kg(昭和13~18年および、昭和21年、昭和25~29年)。
銀:708kg(昭和14年、昭和25~29年)。
銅:9t(昭和21年粗鉱250t、銅品位3.5%)

矢矧鉱山には複数の鉱床があり、金銀脈・銅鉱脈全体の範囲は2km×2kmとなっています。

矢島坑
一番坑の第二大切坑付近に位置した坑道。

1番坑(金銀脈)
鉱脈数は1で、既開発の走向延長は500m、傾斜延長は150m、平均脈幅は0.30m。
平均品位 Au4〜5g/t。
露頭鉱床の露頭から最下部への垂直深度は200m。

坑道には下方から第二大切坑、第一大切坑、中切坑、一番坑が有り、坑道の総延長は3,000mに及んだ。

2番坑(金銀脈)
細脈で未開発

3番坑(金銀脈)
細脈で未開発

辰己鉱床(銅鉱脈)
既開発の走向延長・傾斜延長はいずれも300〜400mの範囲。
上部は閃亜鉛鉱と方鉛鉱に富み、下部は黄銅鉱が多く見られた。

大成鉱床(銅鉱脈)
詳細は不明

 

矢矧鉱山の歴史

1934年(昭和9年)または昭和8年に地元の住民、山本喜八氏が露頭発見、探鉱開始する。
1935年(昭和10年)二木鉱業上生鉱山と改称し、本格的に稼行が行われる。
1937年(昭和12年)東邦採鉱株式会社に出鉱(小坂鉱山、国富鉱山に送鉱)する。
1942年(昭和17年)鉱山名が東邦採鉱株式会社矢矧鉱山と改称する。
1943年(昭和18年)金山整備令により規模を縮小する。
1946年(昭和21年)休山となる。
1947年(昭和22年)閉山となる。
1949年(昭和24年)住友金属鉱山株式会社(別子鉱業株式会社)が東邦採鉱株式会社より鉱山を買収する。
1951年(昭和26年)旧坑取明け掘進を行ない一部出鉱したが鉱況振わず。
1953年(昭和28年)休山。
1954年(昭和29年)閉山となる。

参考資料『日本の鉱床総覧』『丸瀬布町史 上巻』『生田原町史 続』『生田原町史』『北海道地下資源調査資料 (92)』『地質調査所月報 10(7)』

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