赤谷鉱山は新潟県新発田市上赤谷に位置した鉱山です。
古くは鉄鉱石を採掘し、近年には水無沢の石灰鉱床を採掘し石灰鉱山として稼行していました。
赤谷鉱山の概要
熱水性交代鉱床でスカルン鉱物には灰鉄輝石、珪灰石、珪灰鉄鉱、灰礬柘榴石、緑泥石、緑簾石。金属鉱物には赤鉄鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱が見られる。
主要鉱体には場割沢1号鉱体、場割沢5号鉱体、場割385m号鉱体、水無沢45号鉱体、簀立沢下部鉱体、簀立沢中部鉱体などが有った。
この地域には古くから、小岐鉱山と簀立鉱山の二つが有り、それらが赤谷鉱山となったとされる。

石灰採掘時の赤谷鉱産株式会社赤谷鉱山図
新潟地学ハイキングより赤谷鉱山図
小岐鉱山
小岐鉱山は天保年間に会津藩が銅を採掘し製錬を行っていたが、戊辰戦争後に休山となった。後の昭和初期に日曹金属鉱業の経営となり、日曹飯豊鉱山として近年まで亜鉛と、鉛を採掘していた。場所は東赤谷駅から加治川に沿って上流約4キロメートルの位置に有った。
鉱山稼行時は従業員が100人以上おり、小学校や診療所などが整備されていた。しかし、加治川ダムの建設により昭和43年に閉山となった。
簀立鉱山
簀立鉱山は水無沢や場割沢などに位置し、後年の赤谷鉱山として稼行されている部分となっています。簀立鉱山は古来より、雲母箔と称して、装飾用に使用していたことが有る。
国鉄赤谷線と日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道
国鉄赤谷線
国鉄赤谷線は新発田駅と東赤谷駅を結んでいた鉄道路線です。
この路線は、赤谷鉱山等の鉱山からの鉄鉱石を輸送する為に大正期に敷設されたが、第一次世界大戦後の不況の為に使用されずに放置されていた路線を開業したものになります。
大正14年(1925年)に新発田から箕立沢(赤谷)間が開通し、昭和16年(1941年)に赤谷から東赤谷間が延伸しました。しかし、昭和59年(1984年)1月に貨物営業が廃止され、4月に旅客運送も廃止し廃線となりました。
日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道
日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道は赤谷鉄山から産出した鉄鉱石を運搬するために敷設された専用鉄道です。国鉄赤谷線の東赤谷駅から赤谷鉄山の間4.2キロを結んでいました。


赤谷鉱山の歴史
天正年間に赤谷村大字滝谷の阿部藤右衛門氏が簀立沢にて採掘を行ったのが、赤谷鉱山の始まりとされている。
明治12年(1879年)新潟県新発田の佐藤数恭氏が採掘を始めた。
明治26年10月に長崎県平戸の村上忠吉氏と神奈川県横須賀の森村扇四郎氏らが鉱業権を設定した。
明治31年(1898年)6月に三菱金属会社の所有となる。
明治32年(1899年)八幡製鉄所に買収される。
明治37年(1904年)八幡製鉄所が鉄鉱石を清国(中国)から供給を受ける事になったため、赤谷鉱山の開発が中断する。
昭和9年(1934年)製鉄所の官営・民営の大合同により、八幡製鉄所が日本製鉄株式会社となる。
昭和13年(1938年)日中戦争の勃発などの影響による資源確保から、国家より要請を受け開発を開始する。開発の際に簀立沢、水無沢、源兵衛野巣、場割沢に架空索道を敷設する。
昭和14年(1939年)日鉄鉱業株式会社に赤谷鉱山は引き継がれ、日鉄鉱業赤谷鉱業所となる。
昭和16年(1941年)赤谷鉱山として本格的な採掘を開始し、戦時中は年間10万トンの鉱石を生産した。戦後に露頭部の採掘が終了した。
昭和26年(1951年)本格的に探鉱を開始。その際鉛や亜鉛鉱床の探索も行い露頭を発見する。
昭和28年(1953年)鉛と亜鉛の鉱量の増加が期待できないことや品位面からも採算を取るのが難しいことから、鉛と亜鉛の操業を中止する。
昭和32年(1957年)鉱量の増大により年間操業が出来る体制の工事が終了する。
昭和32年(1957年)これ以降年間精鉱量が5万~6万トンとなる。
昭和35年(1960年)銅鉱石生産を開始する。
昭和48年(1973年)炭酸カルシウムの生産を開始する。
昭和50年(1975年)銅鉱石の枯渇により日鉄鉱業株式会社より分離独立し、鉄鉱石、炭酸カルシウムの生産を行う赤谷鉱産株式会社が設立される。赤谷鉱山としてはこの年の3月に閉山する。
昭和62年(1987年)鉄鉱石の生産を中止する。
平成5年(1993年)MIO(雲母状酸化鉄)の製造を開始する。
平成10年(1998年)閉山となった。
参考資料『日本の鉱床総覧』『日鉄鉱業四十年史』『鉱床と地質構造 第2』『越佐歴史散歩 下越編』『新潟地学ハイキング』『石灰石 (268)』


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