飯豊鉱山

新潟県の鉱山

飯豊鉱山は新潟県新発田市大字滝谷に位置した鉱山で、赤谷線東赤谷駅の東方7キロに有りました。

昭和9年に日本曹達株式会社が買収し、当時の鉱区番号は新潟県採掘登録第819号。
鉱種は金、銀、銅、鉄、硫化鉄、鉛、亜鉛となっていました。

明治以来銅山として小岐坑が開発され、明治初見から大正年間にかけては亜鉛や鉛の採掘に飯豊坑での採掘が稼行されました。小岐鉱床と飯豊鉱床は沢を挟んで別れており、それぞれ小岐鉱山、飯豊鉱山と呼ばれることも有った様です。

飯豊鉱山は数センチの黄鉄鉱の結晶が採取できることで、鉱物収集ファンに知られています。

飯豊鉱山の概要

飯豊鉱山の鉱床にはスカルン鉱床と、熱水鉱床が有り、スカルン鉱物には灰鉄柘榴石、柘榴石、緑簾石、珪灰鉄鉱。金属鉱物には閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄鉄鉱、赤鉄鉱、黄銅鉱が見られました。

古くは露頭部分を採掘しており、経営者も幾度か変わった様ですが、日本曹達が買収後は周囲の鉱区を合併し、浮遊選鉱場、索道の架設などを行い鉱山が近代化されました。
一時期鉱山の従業員は140名以上となり、鉱山周辺には小学校、売店、診療所等も有りました。

飯豊鉱山の位置した場所は豪雪地帯かつ周囲に切り立った山の斜面が有った事から雪崩の被害が多く発生しています。
昭和14年1月11日に飯豊鉱山鉱夫2名が雪崩で川に押し流されて死亡。
昭和14年1月25日に飯豊鉱山から下山していた者が雪崩で死亡。
昭和14年2月6日には鉱山施設に雪崩が発生し鉱夫16名が生き埋めとなり、救助活動中にも雪崩が発生しさらに12人が生き埋めとなった。

飯豊鉱山の歴史

幕府時代に会津藩の産銅推奨政策によって発見され、主に銅と銀を採掘していたとされます、
明治5年(1872年)この頃は小岐銅山として、毎月品位が11~13%の銅鉱石を3トン産出しました。
明治初年に亜鉛鉱床と鉛鉱床が発見される。
昭和9年(1934年)日本曹達株式会社が小岐鉱区と飯豊鉱区を買収した。
昭和12年(1937年)子会社の日曹鉱業株式会社に鉱山が移る。
昭和20年(1935年)日曹鉱業株式会社が親会社の日本曹達株式会社に吸収される。
昭和29年(1954年)簀立地区の開発に着手する。
昭和31年(1956年)親会社の設立により、日曹金属株式会社が鉱山を稼行する。
昭和32年(1957年)小岐から簀立下部に860mの立入坑道を開き、坑道採掘を行う。

参考資料『日本の鉱床総覧』『地質調査所月報 2(3)』『日本の雪害史』『鉱山写真帖』

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