イトムカ鉱山(北海道)

北海道の鉱山

イトムカ鉱山は北海道常呂郡留辺蘂町字富士見二股に位置した鉱山です。
野村鉱業株式会社により稼行された水銀鉱山で、水銀の生産量が日本一にもなりました。
鉱山名のイトムカはアイヌ語で”光輝く水”という意味になっています。

イトムカ鉱山の概要

イトムカ鉱山の位置

イトムカ鉱山は留辺蘂町の西、常呂川の支流のムカ川上流に位置し、武利岳、武華岳および石狩岳を結ぶ、標高1,000m付近の山嶺の西斜面に位置していた。
鉱山事務所、選鉱場、精錬所は鉱山の採掘現場の下流約8kmの大町に設置されていた。

イトムカ鉱山の沿革

イトムカ鉱山の発見は、昭和11年11月3日に北海道を襲った暴風により武華岳の山腹に多数の風倒木が発生し、これをパルプ用材として搬出する為に、翌12年に玉曳(伐採した木材を浜から運び出す作業)用の道路を開削している際に土砂から拳大の辰砂鉱の塊(辰砂芋)が発見さえれた事が始まりとなっている。

この際に馬追いの一人が現場より「見慣れない石だ」という事で辰砂鉱の塊を持ち帰り、小樽の米問屋の内藤松之助氏の元を訪れた。内藤氏はこの石の一つを北海道工業試験場に持ち込んで鑑定を行い、水銀含有量80%の辰砂という鑑定が出た。この結果から水銀の鑑定を行った矢嶋氏が中心となり現地調査を行った。

昭和13年の11月に野村徳七氏の野村財閥が鉱区を所持していた内藤松之助氏等から鉱区を100万円で買収し、開発が計画され、翌14年4月5日にヤマト鉱業株式会社が設立された。同年5月には開発に着手され、9月に製錬水銀が生産された。昭和15年12月に会社名を野村鉱業株式会社に変更する。

太平洋戦争時には急激な増産が行われ、日本の水銀生産の大部分を占めるまでになった。
終戦後は乱掘の整備と需要の激減から、規模を縮小したが、昭和28年には世界における水銀需要の好況により活況となった。

昭和45年になると水銀価格の暴落と鉱量の枯渇から操業規模を縮小し、昭和49年に水銀の採掘を中止する。

現在は野村鉱業株式会社の技術や設備を買収したイトムカ興産株式会社の後身企業である野村興産株式会社が、同地で水銀廃棄物の処理やリサイクル事業を行っている。

イトムカ鉱山の鉱床

主な鉱床には石狩鉱床、国境鉱床、倭鉱床、共和鉱床、南部鉱床、東部鉱床があった。
露頭には倭鉱床3号𨫤、東部鉱床20m𨫤、国境鉱床があった。
それぞれの鉱床は東西にほぼ3kmの範囲に位置していた。

主な鉱物は自然水銀、辰砂。
主要鉱物は自然水銀、辰砂の鉱石鉱物と、黄鉄鉱、白鉄鉱、石英、方解石が組み合わされて見られた。

坑道の総延長は昭和41年までに21,673m以上。
試錐総延長は76,673m以上。

昭和41年3月までの水銀生産量は2,897t。

イトムカ鉱山の露頭

倭鉱床3号𨫤露頭
脈幅は15mで、露頭部の平均品位はHg 5.0%。露頭の性状は凹凸はとくに見られず、焼け方はやや弱く、硬軟は硬軟混在(混)。
石英質・粘土質の別では部分的に石英質を呈し、鉱石は鉱染状鉱脈型。特徴的鉱物として辰砂芋が認められる。母岩の変質の状態は、全般に粘土化作用が認められる。

東部鉱床20m𨫤露頭
脈幅は2mで、平均品位はHg 0.3%。露頭の性状は凹凸はとくに見られず(倭鉱床3号𨫤と同様)、焼け方は弱く、硬軟も硬軟混在。
石英質・粘土質の別では粘土質を呈し、鉱石は鉱染状。特徴的鉱物の記載はなく、母岩の変質状態は倭鉱床3号鏱と同じく全般的な粘土化作用と考えられる。

国境鉱床露頭
脈幅は0.2mで、平均品位はHg 0.3%。露頭の性状は凹凸はとくに見られず、焼け方もほとんど認めらない。
硬軟は硬軟混在で、石英質・粘土質の別ではやや粘土質を呈し、鉱石は鉱染状。特徴的鉱物の記載はなく、母岩の変質状態も他の2鉱床と同様、全般的な粘土化作用が考えらる。

イトムカ鉱山の主な鉱床
南部鉱床

南部鉱床は昭和42年頃にボーリング作業で発見され、坑道を掘削し採掘が行われた。
主な鉱脈は3つ有り、それぞれ230m𨫤、上盤1号𨫤、上盤2号𨫤と名付けられている。

東部鉱床

東部鉱床は倭鉱床の東方2kmの場所に位置して、椀かけ法で発見された。
鉱床は沢の西岸から北北西に向かって2つの坑道が約180m掘削されたが、後の坑口が埋没し入坑は不可となっている。

倭鉱床

イトムカ鉱床の中でも倭鉱床は最も主要な鉱床で、日本国内の水銀鉱床としても最大規模となっていて、昭和16年移行の日本の水銀総生産の70%以上を占めていた。昭和14年から35年の間に産出した水銀量は2,500tを越えた。
昭和14年から開発が進められ、当初は露天掘りが行われたがその後は坑道掘りによって採掘が行わてた。

倭鉱床 1号𨫤
鉱脈数は「数条の鉱染脈」で、走向N80°E、傾斜50°S。既開発の走向延長は70m、傾斜延長は60m、平均脈幅は1.0m。
平均品位(主要鉱種)はHg 0.35%で、露頭鉱床の露頭から最下部への垂直深度は50m。

倭鉱床 2号𨫤
1号𨫤と同様に数条の鉱染脈で、走向N65°E、傾斜50°S。既開発の走向延長は60m、傾斜延長は60m、平均脈幅は1.0m。
平均品位はHg 0.35%で、露頭鉱床の垂直深度は50m。

倭鉱床 3号𨫤
走向N70°E、傾斜80°S。既開発の走向延長は50m、傾斜延長は140m、平均脈幅は7.0m。
平均品位はHg 0.4%で、露頭鉱床の垂直深度は100m。

倭鉱床 4号𨫤
走向N80°E、傾斜70°S。既開発の走向延長は140m、傾斜延長は100m、平均脈幅は6.0m。
平均品位はHg 0.35%で、露頭鉱床の垂直深度は100m。

倭鉱床 5号𨫤
走向N60°E〜60°W、傾斜50°〜70°S。既開発の走向延長は120m、傾斜延長は240m、平均脈幅は4.0m。
平均品位はHg 0.5%。潜頭鉱床(地表より鉱脈上限及び最下部への深度)の上限は20m、下限は180m。

倭鉱床 6号𨫤
走向N80°E、傾斜60°S。既開発の走向延長は100m、傾斜延長は160m、平均脈幅は6.0m。
平均品位はHg 0.25%。潜頭鉱床の上限は40m、下限は180m。

倭鉱床 新𨫤
走向N80°E、傾斜60°S。既開発の走向延長は70m、傾斜延長は150m、平均脈幅は6.0m。
平均品位はHg 0.4%。潜頭鉱床の上限は40m、下限は180mです。

倭鉱床 7号𨫤
鉱脈数は「塊状」で、走向N60°E〜EW、傾斜60°〜80°Nです。既開発の走向延長・傾斜延長、平均脈幅は不明。
平均品位はHg 0.3%。潜頭鉱床の上限は20m、下限は140m。

イトムカ鉱山の歴史

1936年(昭和11年)11月初め原始林中の風倒木の下に俗称“芋辰砂”の原地堆積型鉱床の露頭を発見した。
1939年(昭和14年)野村徳七氏によりヤマト鉱業株式会社を設立する。5月に先遣隊が入山する。水銀年産11tする。
1940年(昭和15年)元山精練所完成、年産100t台となる。
1944年(昭和19年)大町精練所完成、年産195tを記録(最高)する。
1950年(昭和25年)敗戦後休止状態の精練再開、生産漸増となる。
1960年(昭和35年)粗鉱生産6万t台、水銀150t台年産を4年にわたり記録する。
1970年(昭和45年)事業規模を縮小する。
1973年(昭和48年)イトムカ興産株式会社が設立する。
1974年(昭和49年)採掘を中止する。
1974年(昭和49年)イトムカ興産株式会社が野村鉱業株式会社の設備や技術を買収し、水銀含有廃棄物の処理を中心に廃棄物処理事業を開始する。

 

参考資料『日本の鉱床総覧』『北海道金属非金属鉱床総覧』『北海道の地下資源 1960』『野村興産株式会社 Webサイト 会社沿革』『日本鉱産誌 B 第1-a (各論 主として金属原料となる鉱石 金・銀 その他)』『地下資源調査所報告 (45)』『留辺蘂町開拓小史 第2集』『回顧雑録 熊田克郎 [著]』

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